2008年3月 1日

第13回 鳴鶴ゆかりの豪徳寺を歩く


 大溪山豪徳寺(世田谷区豪徳寺2−24−7)は、世田谷を領地としていた彦根藩主井伊直孝(万治2年1659没) を中興とする寺で、寺の名は直孝の法名に由来するという。井伊家の菩提寺として、万延元年(1860)3月3日、 雪の降る桜田門外で横死した井伊直弼の墓もここにある。また、ここには、彦根藩士であった日下部東作(鳴鶴)の墓があり、 鳴鶴書丹の碑があることでも有名である。

写真1)碧雲閣の扁額のかかる総門



 東急世田谷線の宮の坂で下り、少し歩くと豪徳寺に着く。「碧雲関」の扁額が掲げられた立派な総門を過ぎると、 左手に「忠正公神道碑」がある。見上げるばかりの巨石である。碑主は、井伊忠正(直憲)。直弼の次男で、第14代彦根藩主である。 碑は、逝去の翌年明治38年(1905)12月に建てられ、井伊直安篆額、谷鐵臣謹撰、日下部東作書、井亀泉刻字とある。 力強い楷書である。

写真2)忠正公神道碑


写真3) 同上碑字


 奥に進むと、法堂に、「豪徳禅寺」の扁額がかかる。禅林風の味わい深い草書である。豪徳寺は寺域一万坪と言われ、境内は広い。 「中正公碑」を過ぎて左に行くと、右に猫観音を祀る「招福殿」があり、左に日下部家の墓地がある。墓域に建つ「鳴鶴先生碑銘」は、 昭和8年に建てられ、鳴鶴の楷書碑から比田井天来が苦心して集字したもの。綺羅星のごとく居並ぶ門弟の中で、なかなか書き手が決まらずに、 月日が経ち結局集字することになったのだという。碑文は、47字33行、1429字に及び、 若干の文字の不揃いは見えるものの全体としてみれば整然とした楷書が連ねられていて天来の労苦がしのばれる。撰文は、内藤湖南。 篆額は、西園寺公望。篆額を、城所湖舟氏は、「天来書と見ました」と雑誌「凌雲」で述べているが、なるほどと思う。

写真4)鳴鶴先生碑銘


写真5) 同上碑字


「集字碑」の角を左折すると鳴鶴夫妻の墓がある。「日下部東作 徳配琴子 之墓」とあり、呉昌碩が篆書で揮毫している。 鳴鶴と呉昌碩は親交が深く、生前に揮毫を依頼したと言う。墓石の右に建っている石柱、「日下部鳴鶴五十年祭記念標」は、 戦後に石橋犀水が書丹したもの。

写真6)日下部東作、琴子夫妻墓


 「集字碑」の向かい側一画は、歴代の彦根藩主や、奥方の墓があり、井伊直弼の墓も左奥にある。墓門の前に明治34年に建てられた 「遠城謙道師遺蹟碑」がある。遠城謙道は、彦根藩の足軽だったが、隠居して僧になり亡くなるまでの30数年間を 直弼の墓守として過ごした人とのことだ。鳴鶴の隷書碑の一つで井伊直憲題額、谷鐵臣謹撰、日下部東作書丹、井亀泉刻とある。 墓門を入り、丘のようになったところが「えい首塚」で、戊辰戦争で戦死した彦根藩士十一人が祀られている。「えい首塚碑」は、 明治8年に建てられた碑で、鳴鶴が六朝風を確立する以前の書である。「桜田殉難八士碑」は、日下部三郎右衛門等「桜田門外の変」 で倒れた藩士を悼んで明治19年に建てられた碑で、血縁の一人でもある鳴鶴が書丹している。このように、日下部鳴鶴の書碑を通じて、 「明治の書」を彷彿とさせるところが、豪徳寺散歩の醍醐味であろう。

写真7)遠城謙道師遺蹟碑


写真8) 桜田殉難八士碑

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