2007年5月 1日

第5回 西郷南洲と勝海舟


江戸無血開城と「西郷、勝会見之地」碑
 官軍の江戸総攻撃という情勢の中で、勝海舟と西郷隆盛が愛宕山から江戸市中を眺めたという話を前回書いた。愛宕山からそう遠くはない三田の薩摩藩蔵屋敷で、西郷と勝は江戸無血開城の交渉を行ったと伝えられる。

 明治元年(1868)2月、有栖川宮熾仁親王を東征大総督、西郷隆盛を参謀とする新政府軍は江戸へと進軍を開始し、3月12日池上本門寺に本営を置い た。江戸総攻撃を目前にする緊迫した情勢の中、幕府陸軍総裁の要職にあった勝海舟は、実質的に新政府軍の指揮権を持つ西郷隆盛と極秘裡に交渉を行った。是 に先立つ3月9日、東征軍が停留していた駿府に山岡鉄太郎(鉄舟)が赴き、西郷と会見して勝の書簡をわたしたが交渉は不調に終わっている。このため、3月 12日に勝が池上本門寺におもむき会談を申し入れたといわれている。13日の薩摩藩邸、14日の薩摩藩蔵屋敷と交渉は続き、徳川慶喜の水戸謹慎、江戸城の 開城、兵器、軍艦の引き渡しなどを条件に、東征軍の江戸総攻撃は中止された。 江戸100万の住民を救ったとともに、西欧列強の介入を未然に防いだと両雄 が言われる所以である。

 この記念碑が、国道15号線(第一京浜)の芝5丁目信号そばに建っている。第一田町ビル前(芝5-33-8)で、JR田町駅、地下鉄三田駅からすぐであ る。ここには、薩摩藩の蔵屋敷が在ったそうで、丸形の碑に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地 西郷吉之助書」と骨太の行書が刻されている。吉之助 は、勿論南洲ではない。孫で、参議院議員、法相(1967第二次佐藤内閣)を務めた人の書である。台座左には「対座する西郷と勝のレリーフ」、右に「高輪 邉繪圖」が嵌め込まれている。昭和29年(1954)に本芝町會が建てたもので、碑陰記は大秀書とあった。厚みのある碑石で、側面には青山石勝刻とある。 形と文字を見ていると風格に乏しい碑なのだが、戦後復興まっただ中の碑としてはかなり立派なものである。


西郷、勝会見之地碑

両雄ゆかりの洗足池
  五反田から池上線に乗り換え洗足池に向かう。池の東、図書館横の道を行くと、海舟の別邸(洗足軒)跡が右側にある。海舟は余程此処が気に入っていたとみえ て、西郷を池上に尋ねると此処に誘い、別邸を建て、生前に墓を造っている。別邸跡を通り過ぎまっすぐ行くと、道は洗足池公園に入り、じきに海舟の眠る(明 治32年1899没)墓地に行き着く。墓表は、徳川慶喜の揮毫と言われ、最初は海舟の墓一基のみであったが、後年夫人の墓が隣に建てられた。


勝海舟夫妻の墓

 海舟墓の左手に、横長の碑があった。当時の東京市長小橋一太が識した碑文には東京遷都70年(昭和14年1939)を記念して「両雄ノ英蹟ヲ貞石に勒して之ヲ顕彰シ永ク後昆に傳フ」とあった。南洲と海舟、両雄の顕彰碑である。

 さらに左に行くと、祠がある。明治10年(1877)6月、西南の役に破れ鹿児島の城山で自刃した西郷の「留魂祠」である。そばに刻字部分を黄 色いペンキで塗られた碑があった。「南洲手墨之碑」と言われる「西郷南洲詩碑」である。読みとり易くするために入れた色であろうが、いささか無粋な感じが する。詩文に「朝蒙恩遇夕焚坑(坑の字、実際はこざと偏)、人生浮沈似晦明、・・・・・・・何疑生死天附与、願留魂魄護皇城。獄中有感  南洲>とある。 文久3年(1863)に西郷が沖永良部島に流された時に作られた詩で、原蹟は大久保利通が所蔵していたらしい。後に勝海舟の収蔵するところとなり、これを もとに海舟は、南葛飾郡大木村上木下川の浄光寺に詩碑を建て、自ら行草の碑陰記を揮毫した。石匠は有名な谷中の廣羣鶴である。この碑は、明治12年 (1879)6月に建てられたが、その後、荒川放水路の水路に当たったため、大正2年(1913)8月に現在の地に祠や関連の碑とともに移された。移設の 経緯を、勝の門下生富田鐵之助が傍らの碑に誌している。

 「留魂祠」は、西郷の七回忌を供養して祀られたもので、「留魂」は南洲の『獄中有感』の結句からきている。祭神は南洲西郷隆盛である。「留魂祠」参道の 鳥居の前に「南洲西郷先生留魂祠手墨之碑」と陽刻された石標があった。碑側に「明治十六年九月 福田敬業書」とあるからその時のものであろう。詩碑のそば には、明????????????ε治16年(1883)11月に建てられた「南洲先生建碑記」もある。玉屋忠次郎が建立したもので、石工廣羣鶴の名 とともに建碑の様が記されている。


西郷南洲詩碑と西郷南洲詩碑碑陰

西南の役で決起した西郷は、明治10年2月、陸軍大将を解任され、位階を剥奪された。憲法発布(明治22年1889)にともなう大赦で、正三位を追 贈され復権を果たすまでは、反政府の大罪人だったのである。海舟は、遠い葛飾の地に、まず詩碑を建て、ついで祠を祀った。自らの墓所のそばに、碑や祠を置 くことは、当時は憚られたのであろう。海舟没後の大正2年、ようやく両雄はこの地で相まみえ、眠ることになる。祠のそばに昭和12年に建てられた碑があっ た。「堂々錦旆壓関東 百万死生談笑中 群小不知天下計 千秋相對両英雄 昭和十二年 火國後學 蘇峯菅原正敬」と刻まれている。火國は肥後・熊本。菅原 正敬は、徳富蘇峰の筆名。幕末から昭和までを生きた、蘇峰の両雄をたたえる詩である。



徳富蘇峰書碑

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