2010年4月 2日

第79回 花開く:花 桜 吉野 芳野三絶

第79回【目次】         
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    * 漢詩・漢文
    * 和歌
    * みやとひたち



30染井吉野2.jpg                                    染井吉野  22.3.20 東京都清瀬市
1 花開く

  東京の桜開花宣言は3月の22日、靖国神社境内の基準木が開花しました。去年より1日遅いものの、平年よりは6日早い開花です。

  いよいよ今年も桜の春がやってまいりました。神話時代から日本人の心の花であり、命の限りと不死とを併せて象徴する特別な役割を負って久しい桜花です。その開花を待ち迎え、ひと時を共にして、また花を送るのは、もはや私たちの民族の春の儀礼のようでさえあります。

     
30山桜6.jpg                                      山桜  22.3.30 東京都清瀬市

  海外からの観光客も、近年ではことにお花見の時期を目当てにするお客が多くなっているそうです。見頃と見所を集めた一般的なガイドブックのほか、日本人にとって桜がどういうものであったか、簡略に歴史風土を辿るような解説本も、諸言語に翻訳されてよく読まれていると言うことです。

  そうした海外向けの案内書にも必ず取り上げられている桜の名所に奈良県吉野山があります。吉野山は花時の景色の美しさばかりではなく、神話時代から我が国の歴史の要所に重要な場所としてたびたび姿を現してきました。このたびは、桜にちなんでその「吉野」のお話を少し。そして例文には、この季節には御紹介する桜の詩歌の中から、特に吉野にちなんだものを集めてお届けします。

      
30桜景色2.jpg                                          22.3.30 東京都清瀬市

2 雪から花へ

  吉野山は奈良県のほぼ中央、吉野郡吉野町にある山です。古代の王朝に縁が深く、斉明天皇、天武天皇、持統天皇には離宮があったといわれます。平城京時代の作品『万葉集』(8世紀中盤)に歌われるこの地は、「時なくぞ 雪は降りける(いつと言うことなく常に雪が降っている)」場所〈※1〉、またひっそりとしてただ鳥の声が響き合う深山〈※2〉、また川水が澄んで清い場所〈※3〉、というのが当時の共通見解であったようです。ここから想像される土地のイメージとは、世俗を離れた清浄な田舎といったところでしょうか。和歌では『万葉集』以来「みよしののよしの」また「みよしの」と表現されることが多いのも、自然に美称「み(御)」を冠される吉野という地の、一種神聖な性格を表していると見ることが出来ます。

 〈※1〉み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は振りける
     その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し
     その山道を (25 大海人皇子)

     み吉野の 御金が岳に 間なくぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るといふ
     その雨の 間なきがごと その雪の 時じきがごと 間もおちず 我れはぞ恋ふる
     妹が直香に (3293 民謡)

 〈※2〉み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも (924 山部赤人)

 〈※3〉皆人の恋ふるみ吉野今日見ればうべも恋ひけり山川清み (1131)
     み吉野の岩もとさらず鳴くかはづうべも鳴きけり川をさやけみ (2161)

      
30コゲラ桜2.jpg                                    桜にコゲラ  22.3.30 東京都清瀬市

  ところで、『万葉集』には吉野に桜を詠んだ歌は見えません。少し広げて記紀歌謡(「古事記」「日本書紀」に収録された歌)を閲覧しても吉野に桜は歌われていません。吉野はいつから桜の山になったのでしょう。

  吉野の桜が歌われた最も古い例は、第一勅撰和歌集として知られる『古今和歌集』(905年〜)の

   み吉野の山べにさける桜花 雪かとのみぞあやまたれける(60 紀友則)

です。しかし、この歌にも登場しているように、平安時代の途中までは吉野といえば「雪」が決まり物でした。『古今和歌集』だけ見ても雪との取り合わせは7首あります。深山、奥山に降る清浄な雪を都で思いやるのが定法です。

   み吉野の山の白雪踏み分けて入りにし人のおとづれもせぬ(327 壬生忠岑)

などと詠まれるのは、その奥山に道心によって入山した人を詠むのだろうという解釈があります。京の都から少し遠い、しかし遠すぎもしない「世俗を離れた清浄な田舎」は、文明と決別しきれない貴族の隠遁の地に選ばれることも多かったようです。

     
22こぶし.jpg                                      辛夷  22.3.22 東京都清瀬市

  もっぱら雪の名所であった吉野が花処となったのは、修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ=役小角:えんのおづの 634〜 706伝)が、吉野山(金峯山)で修行中に金剛蔵王大権現を感得し、桜を神木としたという伝承に拠ると言います。吉野山は実は信仰の山でもあるのです。役行者は『万葉集』成立よりは早い人ですから、この伝説が効果を発揮するまでにはやや時間差があったということになるのでしょうか。吉野山全山を蔽うばかりの数の桜は、後に役行者の信徒が周辺にさかんに桜を植樹したからだとも伝わっていますが、定かではありません。いずれにしても、『古今和歌集』時代に現れた吉野と桜との取り合わせは次第に詩歌の習慣の上に確立され、やがて『新古今和歌集』(1204年〜)の時代になると、雪との配合をしのぐほどになりました。


     
27しだれ桜.jpg                                    枝垂桜  22.3.27 東京都清瀬市

3 芳野三絶

  吉野は、源平合戦の頃は兄源頼朝に追われた義経と愛妾静御前の逃避行が語られたり、その戦乱期に発心した詩人西行がとりわけ愛した地として事跡が残ったりしました。それぞれ物語や芝居の演目になったり、劇的なエピソードはほかにもいろいろとあるのですが、日本史の年表を開いて吉野といえば、まず思い浮かぶのはいわゆる南北朝の争乱でしょう。

  14世紀初め、南朝北朝に分裂した朝廷が、それぞれの正統性を譲らずおよそ60年(1336〜1392)にわたって二つが並び立つという、我が国の歴史の中ではまことに希な長い内乱時代です。この南朝の拠点となったのが吉野でした。のちには事実上北朝に吸収されるような形で南北朝は合一しますが、南朝を正統とする論者は今日もこの時期を吉野朝時代と呼びます。

      
31ヒヨドリ.jpg                                    ヒヨドリ  22.3.31 東京都清瀬市

  南朝の後醍醐天皇は天皇親政を唱えて理想政治を志しました。それが果たせずおわると、後世から見れば南朝は幻の理想王朝のようにも思われたのかもしれません。また、天皇親政というのも響くところがあったのかもしれません。近世の漢詩の世界には、花の吉野に南朝をしのぶというテーマが成立していました。数ある吉野物の中で、代表的な作品を取り上げて「芳野三絶」と呼び習わしています。「芳野」と言う表記はもちろん吉野の雅称です。ここには一つを御紹介し、例文にあとの二作は収めました。
 

 「芳野懐古」   藤井竹外

    古陵松柏吼天飈
    山寺尋春春寂寥
    眉雪老僧時輟帚
    落花深處説南朝

  古陵の松柏 天飈[てんぴょう]に吼え、
  山寺春を尋ぬれば 春寂寥。
  眉雪[びせつ]の老僧 時に帚くことを輟[や]め、
  落花深き處[ところ]南朝を説く。

  古い陵(みささぎ)のあたりの松柏は強風に吼えるような音を立てている。
  山寺に春を尋ねてみると、春はもう盛りを過ぎてひっそりしている。
  雪のような白い眉の老僧が箒を持つ手を止めて、
  花の散りしきる中に南朝の故事を物語ってくれたのであった。

      
1山桜2.jpg                                      山桜  22.4.1 東京都清瀬市

  ※例文の検索には、連載第7回「花の季節」第 31回「花の季節2」
   第55回「花信風」も併せて御覧下さい。


【文例】 漢詩

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