2010年3月22日

第78回 春彼岸:六波羅蜜 解脱

第78回【目次】         
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    * 漢詩・漢文
    * 和歌
    * みやとひたち



20花桃.jpg                                      花桃  22.3.20 東京都清瀬市
1 彼岸まで

  暑さ寒さも、と言われる春のお彼岸になりました。天候の定まらない冬でしたが、いよいよ桜咲く春、卒業入学の若者の春が訪れます、好い春になりますことを願います。

  さて、お彼岸というのも雑節のひとつ、今年は3月18日が彼岸の入り、この日を含む7日間がお彼岸です。その中日と呼ばれる日が二十四節気の「春分」です。天文学的には太陽黄経が0度となる瞬間が「春分」、そうなる日である春分の日を中心に、前後の3日ずつが春の彼岸ということになります。

  「春分」は『暦便覧』(太玄斎 天明7年(1787)著:国立天文台図書館蔵)に「日天の中を行きて昼夜等分の時也」とあるように、俗に昼夜の長さが等しくなる日と説明され、この日を境に昼が長くなるとされていますが、厳密には異なり、実は春分の日にはすでに昼の方が長くなっているのだそうです。昼夜の長さが最も等分に近づくのは実際には春分の4、5日前なのだそうです。

  例によって「春分」の頃の七十二候を眺めてみましょう。

   初候 (今年の場合3月21日〜)(72のうちの)第10候 雀始巣
   次候 (今年の場合3月26日〜)          第11候 桜始開
   末候 (今年の場合3月31日〜)          第12候 雷乃発声
               以上は「伊勢神宮略本暦」(明治7年)に拠る

      
10すずめ.jpg                                    雀の群 22.3.10 東京都清瀬市

     
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  雀が巣を構えはじめ、桜が開きはじめ、春雷が轟く。暖かくなってきた今頃の気候がふんわりと分かる記事です。ちなみに、ここに入る少し前にあたる彼岸の入りの頃には、次のような記載が見えます。
  「啓蟄」の末候 (今年の場合3月16日〜)   第9候 菜虫化蝶

  菜に付く青虫が蝶に変わる、ということです。お彼岸からそのあとのしばらくは、説明するならこんな季節です。虫も、鳥も、花も、空も、かろやかに明るい活動の季節を迎えます。

     
20紅李1.jpg                             紅葉李(べにすもも) 22.3.20 東京都清瀬市
  
2 彼岸 あちら側のこと

  さて、天文上の「春分」と仏教行事である彼岸は、どうして結びついているのでしょう。これは、極楽浄土が西の彼方(かなた)にあると信じられたことに関係があったようです。春分・秋分には理論的に太陽黄経が0度ですから、およそ真東から日が昇り、真西に沈みます。沈む太陽を追って西方浄土に思いを致す日になったのが春秋の彼岸の始まりではないかと言うのです。

      
20紅李2.jpg                               紅葉李(べにすもも) 22.3.20 東京都清瀬市


  お彼岸の中日(お中日)「春分」の日は、我が国の習慣としてはお墓参りの日です。仏教が先祖供養と同居するのは我が国独特の信仰です。お彼岸の中日には先祖を供養し、あとの六日にはいわゆる「六波羅蜜(ろくはらみつ):6つのはらみつ」を日に一つずつ修めるものとされます。

        
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  波羅蜜はサンスクリットのパーラミーターの当て文字で、仏教思想の上で悟りの境地に至るに必要な実践道徳の徳目を言うとされます。日本語に翻訳した形でおよそを御紹介します。

 ・布施[檀那](ダーナ):与えること
 ・持戒[尸羅](シーラ):戒律を保持すること
 ・忍従[羼提](クシャンティ):困難を耐え忍ぶこと
 ・精進[毘梨耶](ヴィーリヤ):善い目的のために努力すること
 ・禅定[禅那](ディヤーナ):心を安定させること
 ・智慧[般若](プラジュニャー):ありのままに観察して
                  思考に依らない智慧を得ること

      
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  お彼岸の6日間には、こうしたことに心を留めて行いを正し、悟りの境地に近づき、ひいては極楽浄土に近づこうというのが日本版の仏教信仰であったようです。

  彼岸とはもともと此岸(しがん:こちら側)に対するあちら側のこと。迷い多い現世の対岸のことです。こことは違う岸、という発想には、今現在の自分をすっかり脱却した別のあり方、「解脱」を希求する仏教というこの思想がよく反映されていると思います。

      
20紅李3.jpg                              紅葉李(べにすもも)  22.3.20 東京都清瀬市


  ところで、最近聞いた受験生用語にある「解脱」。浪人していた学生が大学に入学して浪人を終えることを「解脱」と言うのだそうです。

  意中の大学を目指して一年では叶わず、もう一年。第二、第三の希望校は合格しても第一希望が叶わないと思い切りが付かずにまた浪人する、と言うことがあるようです。受験生にしてみれば、易しい大学に入るのなら何も浪人しなくてもよかったのだ、と思えるので、よほど成功感のある大学でないと入学する決心が付かない、と言う事情です。(本当は入学してからまださまざま山あり谷ありの人生ですが、若い人々には大学入学はそこで人生が振り分けられてしまう強固な最終枠であるような錯覚があるようです。これは明らかな間違いですが、彼らの此岸からは分かりにくく、こちらに渡って来なければ分からないことなのかもしれません。)

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  折角一年掛けたのだから、去年の受験で入れた所なんかには行きたくない、と思う気持ちは理解できますが、これは切りが付かなくなる恐れを含んでいます。実例として国立医学部を目指して二十一浪という人がいたことを、高校のベテラン教師から聞いたことがあります。その人は二十一年目に遂に志望校を変更して浪人生活を終えました。受験生もそれを承知はしていて、半ば自嘲的にその繰り返す浪人暮らしを輪廻(りんね)にたとえるのでしょう。大学合格という形で繰り返しの輪から抜け出すのが「解脱」というわけです。
  うまいことを言うなあと感心しますが、そんなことを言っている間に勉強してね、と周囲の大人は思うことでしょう。

       
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