2008年6月 1日

第35回 雨中閑話:豪徳寺、招き猫、雨宿り


                    20.5.17 東京都清瀬市


    道は花いっぱい、春は
    ほんとに夏と交代。
              「無題」(マルシャーク、北村順治)より抜粋 

  自然の景色に季節の移り変わりを知るのは当たり前のことですが、今年のように天候が不順ですと、むしろ詩の言葉に触れて「ああ陽気がよければ今はこんな時期なのだな」と思いついたりします。
  立夏のあともさわやかに夏の気配が立つことを感じられないまま、5月の末も冷たい雨で暮れました。今月6月はいよいよ梅雨に入ります。今年はもう十分に雨を見た気がいたしますが、これからが雨の本番です。季節のものとは言え鬱陶しいことですね。


             曇りの空を、小鳥を探して覗くみや

  世田谷に豪徳寺という曹洞宗の寺があります。猫に関わる伝承があり、一説に招き猫の発祥地とも言われます。きっかけになったと由来書に語られるのは雷雨でした。このたびは雨の季節を迎えるにあたり、雨にちなんだ雨宿り話、その招き猫縁起のご紹介です。

1 寛永10年の雨宿り
  豪徳寺創建は室町時代、文明年間に遡ります。文明12年(1480)、当時の世田谷城主であった吉良政忠(生没年不詳)が伯母の弘徳院の菩提を弔うために城内に結んだ庵「弘徳院」がその始まりとされます。創建当時は臨済宗に属していました。

  世田谷城は14世紀の末から奥州吉良氏が居城とし、そこに代を重ねていましたが、天正18年(1590)、吉良氏朝の時に小田原の役で焼け落ち、城跡 は豊臣氏側に接収されました。さらに徳川の時代になって後、城の石垣などは江戸城改修の石材として利用されたと言います。小田原の役以降、廃墟に残された 弘徳院は持仏をひっそり守るだけの寂しい場所になっていたものらしく窺われます。
  この寺に転機が訪れたのは寛永10年(1633)彦根藩主井伊直孝がこのそばをたまたま通りかかったことによります。



  当時のさびれた弘徳院に、それでも専住する僧侶はいたようです。貧しい日々の中、居付いた一匹の猫に乏しい自分の食物を割いて分けて可愛がっていまし た。ある夏の日、彦根藩主井伊家の二代当主直孝が鷹狩りの帰りにこの近くを通りかかり、山門近くの松の木の根方で休憩を取っていたところ、門前からこちら に向かって手招きをする猫がいる。めずらしく思って寺に入ると俄(にわか)に空は雨模様、いっときそこで雨宿りをすることになりました。一同が荒れた寺の 客になって間もなく、みるみる暗雲が天を覆い、すさまじい雷鳴が轟いて、つい先ほどまで休んでいた松の木に雷が落ちたのでした。危ういところで難を逃れた 井伊直孝はこれを縁としてこの地を下屋敷に拝領することを願い出ました。そして寺は井伊家の菩提寺、曹洞宗の寺院として再興され、広大な領地を寄進され、 立派な伽藍が整備されることになったのでした。


            20.5.17 豪徳寺  三重塔の二階の高欄に

  猫の恩返しといった趣の伝説によってこの寺は通称猫寺と呼ばれるようになりました。その猫が死ぬと住職は猫の塚を建てて懇ろにこれを弔いました。その猫の姿を写して祀ったのが現在豪徳寺に見られる招福猫児(まねぎねこ、招福観音菩薩立像)であるということです。

  やがて万治2年(1659)に井伊直孝が没すると、その法号久昌院殿豪徳天英居士からそのまま取って、寺の名は現在に見るとおりの豪徳寺と改号されました。


                   20.5.24世田谷区豪徳寺

  今日の豪徳寺境内にひときわ目を引くのは、招福猫児を祀る招福殿脇に設(しつら)えられた大小無数の猫が居並ぶ棚です。善男善女の祈願を叶えて役目を 果たした豪徳寺の猫たちはふたたび寺に返され、奉納されることが習慣になったものです。家内安全、商売繁盛、諸々の心願成就を担っておつとめを果たしてき た猫たちです。棚を狭しとぎっしり並んでいるさまは、人間の願いの多いこと、尽きないことを思わずにいられない光景です。


           20.5.17世田谷区豪徳寺


2 禅寺に猫
  もともと猫は、仏教伝来の昔、貴重な仏典を鼠から守るために経文とともに船に乗って来たものだと伝わります。書物に鼠が大敵であった歴史に、猫は学徒文人の頼もしい味方でありました。そのせいもあってか、昔から文人僧侶に猫を愛する話は多いのです。

  室町時代になって優勢になる禅宗の僧にはことに猫好きが多く、猫を詠んだ詩も数々残ります。
  南禅寺や建仁寺の住職を務め、14世紀の高僧として名の残る義堂周信(1325〜1388年、土佐の人)、また時代をわたって16世紀には天竜寺妙智 院の住職であった策彦周良(さくげんしゅうりょう、1501〜1579、丹波の人)といった人の複数の詩が知られています。以下はその策彦周良の七言絶句 です。

 悼猫児(猫児を悼む)
 
  猫児不幸俄横死  猫児[びようじ]不幸にして俄[にはか]に横死す。 
  鼠輩作群有喜声  鼠輩群を作[な]して喜声有り。
  好転全身上天去  好し轉[うた]た身を全うして天に上り去るも、
  堪飢四子可憐生  飢うるに堪ふる四子は可憐生[かれんせい]
     ※猫児は猫の愛称、子猫のことではない。
     ※[かれんせい]=不憫なやつ
  (猫が不幸にしてにわかに死んでしまった。
   鼠のやつは群をなして走り回っている。
   急死した猫の体は上天に召されたにしても、
   残されて飢えに堪えている四匹の子猫を見るのは不憫に耐えない)

急死した猫の遺児に寄せる哀憐の情を見、その死に臨む真切な痛みを読むとき、この詩人にとって猫はただのねずみ捕りの具だったのではなく、ねずみ捕りにつとめてくれた親愛なる同居人、あるいは学問の仲間のような存在であったことが伝わってきます。
  さらに禅僧の中で猫好きが知られる人としては、15世紀、和漢の古典の注釈書に仕事が残る桃源瑞仙(1430〜1489、近江の人)が目を引く存在で す。瑞仙は著作の後書き(識語)に身辺雑記を加え、飼い猫の消息まで記しているのです。膝の上の猫が入念に毛繕いをしている様子をまた丁寧に写している文 章などは、猫に関心のない読者にとってはどう読まれたものだったでしょう。たとえば、

  猫は舌を櫛の代わりにしてその毛を梳(くしけず)る。体は舐めおおせるが、
  頭だけは舌が届かない。それで、手をなめて頭を拭っている。洗面している
  のだろうか。
                  『百衲襖』(『周易』の注釈)より簡約

猫を身近に見ている者にとっては何とも猫らしい光景で、それを観察する瑞仙の視線に愛情があるのが分かります。が、だから何だと言われそうな記述ではあります。

  桃源瑞仙を訪ねて行った季瓊真蘂(きけいしんずい、1401〜1469)は、瑞仙が膝に猫を乗せ、猫ともども安らいで客に応接する姿を『蔭涼軒日録』 という僧坊の公的日記に好ましく著しています。猫と禅僧というのは、仲良しの組み合わせとして認知されていたようでもあり、弘徳院の例は決して特別な設定 では無かったと思われます。


20.5.21 東京都清瀬市


3 招く猫
  それにしても、荒れ寺弘徳院を猫の手招きひとつで富裕な豪徳寺に興すことができたとすればあっぱれな話です。しかし、猫とは長いつきあいですが手招き された覚えがありません。猫が手招きしていると見えるような動作にも思い当たるものがありません。耳でも掻いていたのかなと言う気がしますが、井伊の殿様 が手招きと見たのであれば、そんなありきたりの仕草ではなかったのでしょうか。

  ともかく、この話のあたりから、猫の手招きは「招き猫」というなじみやすい形をとって人みなが了解するするものになりました。
  豪徳寺の白猫たちは右手を挙げて招くのが決まりですが、現在世の中にはポーズのヴァリエーションはいくつかあって、それぞれ幸運を招くもの、財運を招 くもの、恋愛成就や学業成就まで担当が様々あるようです。左手は金を招き、右手は人を招くという俗説がありますが、その逆も聞き、確かなことは分かりませ ん。また、豪徳寺の由来書からここを招き猫の発祥地とする説がありますが、研究者に拠れば、京都三条大橋の近く、浄土宗の名刹檀王法林寺にも17世紀には 始まる黒猫信仰があり、ここに祀られる「主夜神尊」という、夜とおそらく平安な眠りを守る本尊のお使いに、黒い招き猫像があることが紹介されています (『鈴の音が聞こえる』田中貴子 淡交社 など)。この夜のお守り役の黒い招き猫像も右手を挙げていると言いますが、像の成立は豪徳寺よりいくらか早いとする説があることをお知らせしてお きましょう。





  招き猫愛好団体「日本招猫俱楽部」は1995年に招き猫の記念日を「来(9)る福(29)」にちなんで9月29日と定め、この記念日は日本記念日協会 に正式認定されているそうです。第1回の「来る福招き猫祭り」は大和神話の聖地伊勢神宮を擁する縁起どころ三重県伊勢市で開催され、以来毎年全国各地に協 賛の催しが開催されていると言うことです。残念ながらまだこのお祭りには遭遇したことがありませんが、獅子舞ならぬ猫舞やら、御ニャン体を担いだ御練りや らあって、盛り上がり楽しいものようです。


     これは仰向けに寝ています。
     愛想が良く、通りかかると「ハァーイ」と挨拶。
     約半年前で、まだメタ坊になる前ですが下半身は十分に幅が広い。


4 招くことができるもの
  井伊家ゆかりの豪徳寺には、彦根藩士であった明治の書家日下部鳴鶴(1838〜1922)の墓及び日下部家の墓所があります。日下部鳴鶴は、彦根藩士 田中総右衛門の第二子として天保9年8月18日に江戸の藩邸で生れました。日下部姓は、安政6年22歳の時に同じ藩の日下部家に養子に入ったことによりま す。翌万延元年、桜田門外の変により、養父は大老井伊直弼とともに横死しました。その井伊直弼ももちろんこの豪徳寺に眠ります。

  鳴鶴が書を志したのは大老暗殺の翌年のことです。幕藩体制の末期、動乱の気配の迫る中、「蘭亭序」に酒を供えて臨池の精進を誓ったということです。


    日下部鳴鶴夫妻の墓 世田谷区豪徳寺 20.5.17


            日下部家の墓 世田谷区豪徳寺 20.5.17

  無師独悟といわれた鳴鶴は、当時すでに故人であった幕末の三筆の一人貫名菘翁(ぬきなすうおう1778〜1863)に傾倒し、その教えの要諦であった 「集帖より原碑を、原碑より真蹟に拠れ」を一貫した学書法として基本的に独学でしたが、後進の指導には力を尽し、鳴鶴のもとには意欲的な若い学書者が集り ました。鳴鶴は明治27年に「同好会」を組織してそこを若い門下の研究の場としました。

  比田井天来が本格的に上京したのが明治30年。すでに二十代で書の六体に通じていたという天来ですが、上京間もなく鳴鶴に師事します。ちょうど「同好 会」が活発な討究の場になっていた頃でした。師鳴鶴に同道して天来も豪徳寺を訪れたことがあったかもしれません。鳴鶴の没後は墓参に足を運んだこともあっ たはずです。若いころはもちろんのこと、終生書学に情熱を注ぎ、悩みも多かったはずの天来は、願いを叶える猫の傍らを、果たしてどのをような面持ちで、何 を心に通り過ぎたでしょうか。望みや願い、というものにも種類があることを考えるとき、招き猫に頼めることは、やはりかなり物理的な利益に限られるのだろ うと思い当たります。




                     20.5.27 東京都清瀬市 

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