季節に映ることば
季節に映ることば

名僧のことばー日本編

比田井和子

仏教の経論や高僧のことばの中に、作品にしてみたい名言がたくさんあります。短いことばであっても、そこに含まれた意味に気づくと、驚きが生まれ、その余韻がいつまでも続くのです。

四季の風物を詠んだ美しい歌や、日々の出来事をさりげなく記したことば。それらを作品にすれば、背後にある、人生の深い真理が浮かび上がり、いつまでも忘れられない風景を作り出すことができるでしょう。

ことばはすべて「日本仏教名言集」からの引用です。


最初は弘法大師、空海のことばです。短いことばの中から、宇宙の息吹が聞こえてくるよう。雄大な世界が宿っています。
「弘法、筆を選ばず」なんて言われていますが、実際に空海が書いたのは「能書必用好筆」。能書家は必ず好い筆を選んでいる。この言葉を広めて、誤解をといてほしいものです。

空海

悠(ゆう) 
 はるかにしてきわめがたいこと。『秘蔵宝鑰』

杳(よう)
 奥深く遠くかすかであること。『秘蔵宝鑰』

法雷(ほうらい)
 冬眠している土中の虫を春雷が目覚めさせるように、人々の迷いをさます教えの響き。『性霊集』

悠悠(ゆうゆう)
 悠遠にしてきわめがたいこと。『秘蔵宝鑰』

杳杳(ようよう)
 きわめて奥深くかすかであること。『秘蔵宝鑰』

明星来影(みょうじょうらいよう)
 明けの明星が現れる。明星は虚空蔵菩薩の象徴、青年期の空海が室戸岬での修行体験を述懐したことば。『三教指帰』

能書必用好筆
 能書(のうしょ)は必(かなら)ず好筆(こうひつ)を用(もち)いる。 
 能書家は必ず好い筆を選んでいる。『性霊集』

悠悠悠悠太悠悠
 悠悠(ゆうゆう)たり 悠悠(ゆうゆう)たり 太(はなは)だ悠悠(ゆうゆう)たり
 悠遠である。悠遠である。はなはだ悠遠である。『秘蔵宝鑰』

杳杳杳杳甚杳杳
 杳杳(ようよう)たり 杳杳(ようよう)たり 甚(はなは)だ杳杳(ようよう)たり
 奥深く深淵である。深遠である。甚だ深淵である。『秘蔵宝鑰』

不識己有貧莫過此
 己(おの)が有(う)を識(し)らず 貧(ひん)此(これ)に過(すぎ)たるは莫(な)し
 自己のありさまを知らないこと、これ以上の貧しさはない。『吽字義』
 
恕過令新謂之寛大
 過(とが)を恕(ゆる)して新(あらた)ならしむる 之(これ)を寛大(かんだい)と謂(い)う。
 過ちをゆるして心新たになるように更生させることを寛大というのである。『性霊集』

禿樹非定禿遇春則栄花
 禿(かぶろ)なる樹(うえき)も定(さだ)ん禿(かぶろ)なるに非(あら)ず 
 春(はる)に遇(あ)えば則(すなわ)ち栄(さか)え花(はな)さく
 葉を落とした冬の樹木も、永遠に枯れ木のようになっているのではなく、春になれば葉を茂らせ花を咲かせる。
 『秘蔵宝鑰』

松竹堅其心 氷霜瑩其志
 松竹(しょうちく)は其(そ)の心(こころ)を堅(かた)くし 氷霜(ひょうそう)は其(そ)の志(こころざし)を瑩(みが)く
 松や竹が常に緑の色を保つように心を堅固にし、氷や霜が清らかに輝くように志操を清らかにする。
 『性霊集』

観蓮知自浄 見菓覚心徳
 蓮(はす)を観(かん)じて自浄(じじょう)を知(し)り 菓(このみ)を見(み)て心徳(しんとく)を覚(さと)る
 泥水に汚されない蓮華を観じて自らにそなわる清浄を知り、蓮の実を見て心に仏陀の徳がそなわっていることを知る。
 『般若心経秘鍵』

続いて、最澄と道元です。
最澄は空海から書籍を借りて勉強したり、弟子の泰範、円澄、光定らと高雄山寺におもむき、空海から灌頂を受けたり、謙虚で誠実な印象です。書は注目されることが少ないのですが、その人柄をあらわし、清らかで品格が高く、私はとても好きです。
道元は日本における曹洞宗の開祖。「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」という短歌が有名です。

最澄

妙(みょう)
 凡夫の思考では及ばない、優れた不可思議なもの。
 『法華去惑』他

円融(えんにゅう)
 それぞれがその特性を持ちつつ、互いに一体となって妨げなく融け合っている様。
 『法華秀句』他

虚空不動(こくうふどう)
 心に妨げるもののないこと大空のごとく、動揺しないこと。
 『一乗戒建願記』

古師有謬新師可改
 古師(こし)に謬(あやま)り有(あ)らば 新師(しんし)改(あらた)むべし。
 かつての師匠の教えに間違いがある場合には、今の者はそれを改正すべきである。
 『守護国界章』


道元

虚空(こくう)
 虚空とは空中・空間のことで、広大であって、まったく障害となるもののないこと。
 『正法眼蔵』

非思量(ひしりょう)
 思量(おもいはかること)・不思量(おもいはからないこと)を超えた絶対の境地。ひたすら座禅する境地をいう。
 『永平清規』

渓声山色(けいせいさんしょく)
 谷の声、山の色。客観世界の真実相を示したもの。
 『正法眼蔵』

聞師説而忽同己見
 師(し)の説(せつ)を聞いて 己見(こけん)に同(どう)ずること勿(なか)れ。
 師の説を聞いて、それを自己流に解釈してはいけない。
 『学道用心集』

次は良寛。作品に書きたい詩歌やことばはたくさんありすぎて、嬉しい悲鳴。「天上大風」が書かれた凧は有名です。
白隠の最初に出てくる「君看双眼色 不語似無愁」を、良寛は「君看双眼色 不語似無憂」と書いています。ことばは、それを生んだ作者から離れて、独り歩きしていくものなんですね。

良寛

天上大風(てんじょうおおかぜ)
 大空に吹きわたる豊かな風のように、仏の慈悲は豊かで満ち満ちている。

盗人にとり残されし窓の月
 盗人(ぬすびと)にとり残(のこ)されし窓(まど)の月(つき)
 庵に盗人が入ってきたが、めぼしいものは何もない。やむを得ず役にもたたない物を手にして帰った。あとには月だけが窓から輝いていた。

裏を見せ表を見せて散る紅葉
 裏(うら)を見(み)せ表(おもて)を見(み)せて散(ち)る紅葉(もみじ)
 紅葉したもみじが、風に吹かれるでもなく、裏を見せ、表を見せてはらりはらりと散ってゆくことだ。

手ぬぐひで年をかくすやぼむおどり
 手(て)ぬぐいで年(とし)をかくすやぼんおどり
 老いた身であるが、手ぬぐいをかぶって年がわからないようにしながら、盆踊りの輪にはいって、踊りを楽しむことだ。

災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候
 災難(さいなん)に逢(あ)う時節(じせつ)には災難(さいなん)に逢(あ)うがよく候(そうろう)
 災難に逢ったら、それから逃げ出そうとせずに、災難に直面するがいい。これこそ災難をのがれる妙法である。

こと葉のおほき はなしのながき 手がらばなし じまんばなし
 こと葉(ば)のおおき はなしのながき 手(て)がらばなし じまんばなし
 おしゃべり。長話。手柄話。自慢話。これらは戒められることである。

鉢の子にすみれたむぽぽこき混ぜて三代のほとけに奉りてな
 鉢(はち)の子(こ)にすみれたんぽぽこき混(ま)ぜて三代(みよ)のほとけに奉(たてまつ)りてな
 鉢の子にすみれやたんぽぽを混ぜ入れて、三世にわたる仏様にさしあげたいものだ。


白隠

君看双眼色 不語似無愁
 君(きみ)看(み)よ双眼(そうがん)の色(いろ) 語(かた)らざるは愁(うれ)いなきに似(に)たり。
 多くを語らないからといって、あなたは私の両目に宿っている深い愁いの色を感じないのだろうか。
 『槐安国語』

気海丹田に主心が住めば四百四病も皆消ゆる
 気海丹田(きかいたんでん)に主心(しゅしん)が住(す)めば四百四病(しひゃくしびょう)も皆(みな)消(き)ゆる
 丹田(へそ下あたり)に心をおけば、どんな病気もみな治ってしまう。 
 『主心お婆々粉引歌』

最後は一休と仙厓です。戒律や形式にとらわれず、奇抜な行動をとったという一休。漢詩や短歌からもその人柄がうかがえます。
仙厓もまた、奔放な生き方で知られています。最後の短歌、年を取って手はふるえるし足はよろつく、歯は抜けるわ耳は聞こえないわ目はかすむわ、もうたいへん。でも、そんな人生も悪くないよ。そんなふうに言っている仙厓の姿が見えてくるような気がしませんか?

一休

観法坐禅休度日 但須勤跋扈飛揚
 観法坐禅(かんぽうざぜん)して日(ひ)を度(わた)るを休(や)めよ。但(た)だ須(すべか)らく勤(つと)めて跋扈飛揚(ばっこひよう)すべし。
 観法や坐禅などして毎日を過ごすことなどやめよ。ただ拘束を受けず、自由に飛びまわるように努力すべきである。
 『狂雲集』

紙窓夜坐鉄綮下 一点寒灯照寂寥
 紙窓夜坐(しそうやざ)す鉄綮(てつけい)の下(した) 一点(いってん)の寒灯(かんとう)寂寥(せきりょう)を照(て)らす
 紙の窓のそば、鉄の燭台の下で坐っていると、ひえびえとした灯火がさびしいわしを照らす。
 『狂雲集』

世の中の嫁が姑に早やなれば 人も仏になるは程無し
 世(よ)の中(なか)の嫁(よめ)が姑(しゅうと)に早(は)やなれば 人(ひと)も仏(ほとけ)になるは程無(ほどな)し
 世間の嫁が姑にすぐなるのだから、人が仏になるというのは、わけもないことだ。

見る毎に皆そのままの姿かな 柳は緑花は紅
 見(み)る毎(ごと)に皆そのままの姿かな 柳は緑花は紅
 見るたびごとに世にあるものはすべてあるべき姿を示している。柳は緑色をしているし、花は紅。


仙厓

生かそふところそふと
 生(い)かそうところそうと
 生かそうと殺そうと、この医者のさじ加減一つ。

目を推せば二つ出て来る秋の月
 目(目)を推(お)せば二(ふた)つ出(で)て来(く)る秋(あき)の月(つき)
 目玉を押してみな。秋の月がだぶって二つ見える。

かぶ菜と坐禅坊主はすわるをよしとす
 かぶ菜(な)と坐禅坊主(ざぜんぼうず)はすわるをよしとす
 かぶ菜と禅坊主はいずれも坐りのよいのが一番である。

堪忍のなるかんにんかかん忍かならぬ堪忍するかかん忍
 堪忍(かんにん)のなるかんにんかかん忍(にん)かならぬ堪忍(かんにん)するかかん忍(にん)
 じっと堪忍できるのは、堪忍ではない。堪忍できないのを、堪忍するのが本当の堪忍。

手は振るう足はよろつく歯は抜ける耳は聞こえず目はうとくなる
 手(て)は振(ふ)るう足(あし)はよろつく歯(は)は抜(ぬ)ける耳(みみ)は聞(き)こえず目(目)はうとくなる
 年をとると、自然と手はふるえ、足もよろつき、歯は抜け、耳は遠くなり、目がかすんで見える。

     
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