古碑帖の正確な見方

筒井茂徳(書法家)

第十回下「篆書の名品 泰山刻石を習う」

2021.03.22

前二百二十一年に中国全土を統一した秦の始皇帝は、各地の霊山に登って天地をまつり、自分の徳をたたえる記念碑を建てます。その翌々年に山東省の泰山に建てられたものが泰山刻石であり、宰相の李斯(りし)の筆に成ると伝えられています。

碑文は「皇帝臨立、作制明法、臣下脩飭」(皇帝立〈くらゐ〉に臨み、制を作り法を明らかにし、臣下脩飭〈しうちよく〉す)で始まります。その最初の四字を臨書課題としました。左下の拓本は十二世紀の初めに採られたものと言われ、建碑後、千三百年間、山頂に立っていただけに霞を隔てて対するようですが、観る者の目には在りし日の姿がありありと浮かんでくる名品です。

しかし初心者が習うには、筆画がどこまであるのか、細部の表現はどうなっているのかなど分かりにくいところが少なくないので、修正復原した図版を右下に示しました。こうしてすっかりきれいにしてしまうと、かえって物足りなく感じてしまいますが、おそらく原初の姿はこんな風であったのでしょう。この修正復原図版を習って頭に入れた上で、原本に挑戦するという方法もあります。そこで今回はそうした習い方もできるような構成にしました。

泰山刻石

まずは修正復原図版です。

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泰山刻石

半紙を四つに折って、ゆっくり丁寧に臨書してみましょう。筆順の不明な字については、この下の各字の説明に分解図を載せてありますから、それを先に確認してください。そして一枚書くたびに裏返して見て、横画の水平、縦画の垂直、左右対称であるべき文字(皇、帝、立)の姿をチェックします。ほぼ左右対称に書けていれば、表から見ても裏から見ても同じ姿になるはずです。

こうしてある程度、大きな問題が消えてきたら、概形枠を書き入れ、また補助線や接続、交叉の気になる地点にポイントを打ってみましょう。それからまた練習して、手本と練習作品との違いを直してゆくことです。

次に概形枠を記入し、一般的に有効度が高い補助線や交叉、接続の地点にポイントを打った参考図版を示すとともに、各字のポイントを説明します。練習作品をあらためて見直し、ヒントになるところがありましたら、自分自身の記号やメモなどを書き込むのもよいでしょう。

泰山刻石

「皇」
泰山刻石
右上には白黒反転図版を載せておきました。この字に限りませんが、泰山刻石の概形は縦、横の比率がほぼ三対二だということも頭に置いておきましょう。「白」の第一画、第二画の左右になだらかに下がる筆画は、ややもすると勾配(こうばい)が急になりがちです。両側の縦画との接点に赤い点を打ったのは、このことに注意を促すためで、縦画のトップから赤い点までの距離は短いのです。「白」の左下部、右下部は曲線的に見えますが、曲線部分は意外に短い。大回りしないように気をつける必要があります。
ところで下部の「王」の概形は縦長でしょうか、横長でしょうか。(答:やや横長)

「帝」
泰山刻石
上の「皇」に続いて、この字も左右対称に作ります。半紙を裏返して見ると、うまくいっていない箇所はすぐ分かります。直線はまだしも、曲線を含む筆画は容易ではありません。曲線を含む筆画同士は裏から見ると相当に右下がりに見えるのがむしろ普通ですから、落胆することはありません。これはわたしたちの目が知らず識らずのうちに右上がりの世界に漬かっていて、純然たる水平が認識しにくくなっているからです。
この字は文字の内部に筆画で区切られた八つの空間を含んでいますが、どこにも空きすぎたところや詰まったところがないように作っています。機械的に均等に配分したのではこうはなりません。均等に見えるように、感覚の働きによって空間を巧みに分割していることによるのです。

「臨」
泰山刻石やはり空間の等分割を感覚的に処理する必要がある字です。左上の「臣」では、内部の上下の短い縦画をやや右に寄せて書いてあります。その左側の空間が密室であるのに対し、右側の空間は開かれているからです。また「臣」は四本の横画が内部の空間を縦に三つに区分していますが、第二横画と第三横画との間をやや広くしてあります。四横画を機械的に均しい距離に書くと、感覚的には第二横画と第三横画との間が狭く感じられるからです。「臣」の右下の「口」の右の縦画と、そのすぐ右の長い縦画との間が狭いのは、ここに目を瞑(つぶ)ることによって、上部の「臣」の右側の縦画と右の「人」の二縦画との間の空画を均しくすることを重視したためです。
「臣」の筆順は、第二画の縦画の下端を右に回折して下の横画を書いてしまってもかまいません。ただ上の分解図のように書くと、下の横画の高低を微妙に上下に調節して書くことが可能になります。旁の「人」の筆順は逆に書いても大丈夫です。 青の横の補助線は並んだ二つの「口」の縦画起筆部を通る水平線ですが、概形を二等分しています。

「立」
泰山刻石画数は少ないものの、それだけに左右不対称が目立ちやすい字です。腕を左右に垂らした両肩の関係が、どうしても右肩が上がってしまうものです。左肩を上げ気味にし、右肩を下げ気味に書いて、裏返して見る。これを何度も繰り返して矯正するほかありません。
文字の内部を縦方向の筆画が三つの空間に分割しています。真ん中の二縦画の間を多少狭くしているのは、両肩を下げた分、外側の空間が狭くなるからです。古代の人はこういうところを感覚的に処理し、空間が空きすぎたり、詰まって見えないように筆画の配置を微妙に工夫していることが分かります。

泰山刻石の最初の四字を修正復原手本によって学んできました。この四字については重要なポイントは理解できたと思います。無表情に、冷徹なまでに組み上げられた完璧な構成美は容易に人を近づけないものがありますが、こうした巨人に挑戦してみるのも書道を学ぶ楽しみの一つでありましょう。

〈原本による手本〉
最後に原本の最初の四字を半紙四字書きに配列した手本を掲げておきます。石の欠けのためにたいへん見にくいものですが、書としては修正手本ははるかに遠く及びません。篆書を面白く感じられた方はぜひ臨書を試みてください。何度も習っているうちに、いつか霧が晴れてくるように感じられることがあるかも知れません。

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泰山刻石

 

【あとがきにかえて】

わたくしの連載はこれが最終回です。昨年十一月から始めて四箇月に及びます。長くおつきあい下さいましてありがとうございました。

わたくしは昭和四十六年に大学を卒業して中学校の習字の講師になりました。以来、小学校、高校、大学の講師を歴任し、生涯学習の講座でも教えてきて、いつのまにか半世紀を越えました。学校での習字の授業時間は少なく、その中で生徒の字をいかにうまくするかがわたくしの課題になりました。教え始めた当初から、少ない練習時間を補うには言葉による智的な説明と黒板での図解を併用するほかないと考え、試行錯誤してきました。

生徒の練習作品は、どういうところがうまく書けないかというサンプル集でした。授業のたびに、生徒が苦手とする一般的な傾向がわたくしの脳裏に蓄積されるのです。そんなことも資料として、二玄社刊行の「楷書がうまくなる本」、「行書がうまくなる本」二冊(蘭亭序、祭姪文稿)、「草書がうまくなる本」(書譜)を書きました。

このたび比田井さんから連載を依頼された時に考えたことは、各書体を通した、総合的な技法書の形で展開することでした。子供のころに小学校や塾で筆の持ち方を教わっていれば、書道は自習できるとわたくしは考えています。書道の古典すなわち古碑帖はすぐれた印刷本が山のようにありますから、いくらでも勉強できます。この連載で説明した概形や補助線、接続および交叉のポイント等を手がかりとすることにより、手本と自分の臨書との相違が分かってくれば、あとは練習によってその相違を減らしてゆくだけです。

しだいに学習が進んでゆけば、一々概形枠等を記入しなくても、頭の中で同様の処理ができるようになります。それでも、どうもうまくいかないな、どこが手本と違っているのだろうと感じた時には、またこの連載を読み返して下さい。

古典にはゆたかな美的情趣があるいは濃厚にあふれ、あるいはさりげなく光っています。できるだけ忠実に学ぼうとする態度から、技法だけでなくそうした美的精神をも学ぶことができるとすれば、楽しみとしての書道の目的は十分に達せられたことになるであろうと信じます。この連載がいくぶんなりともその手助けになれば、著者としてこれにまさる喜びはありません。

 

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