何期須傳
北川博邦
北川博邦

売据と唐様で書く三代目

川柳は天地人の森羅萬象を対象として詠まれているが、書について詠まれた者は意外に少ない。その中でもっともよく知られているのが、表題にした「売据と唐様で書く三代目」である。

この句は広く知られているだけに、その間違った解釈も広く行き渡っている。たいていの人は、これは、唐様の書法が流行して広く世間に普及していたことを示す者であると思っているようだが、実はこれは大間違い。そう思っていて、何かの折にふと口にするだけならまだしも、うっかり文章にしてどこかに発表でもしようものならば、末代までも恥をさらすことになるのである。もう恥をさらしてしまった人もいるけれどもね。

さてその所以はいかにと言うに、売据とは売家ということである。三代目の道楽息子が遊蕩の末に家産を使い果たし、ついには家までも売りに出すことになり、その売据という文字が唐様で書かれていたため、殊更に人目を引くことになったということである。初代が基を立て、二代目がそれを発展させ、営々辛苦の末に築いた家産を、苦労知らずの三代目が様々の道楽をして右から左へと使い果たした。唐様の書法を学んだのも、その道楽の中の一つに過ぎなかったのである。もしも唐様の書法が広く普及していたならば、売据と唐様で書かれていても、なんの珍しいこともなく、わざわざこのような句を詠むこともなかったのである。

江戸時代三百年の書法は、幕末に至っても、なお所謂御家流が主流であり、唐様は一部の特別な人士の間に行われた者でしかなかったということを、しかと認識しておかなくてはならないのである。

 

ついでに、江戸の庶民の間に人気のあった書家を詠んだ川柳をいくつか記しておこう。

先ず初めは三井親和(しんな)。このひとは細井広沢の門下で、殊によく名を知られた。

 

二所(ふたとこ)の三井で幟出来上がり

二所とは二ヶ所。一つは三井親和、もう一つは三井呉服店。三井呉服店で誂えた祭の幡(のぼり)に三井親和が揮毫して出来上がりというわけ。当時はあちこちの町内の幟には三井親和の揮毫になる者が多かったのである。

 

祭りといえば深川の親父出る

親和は深川に住していたので、作品に深川親和と署款することが多かった。そこで親しみをこめて深川の親父と呼んだ。それも祭の幟が親和の書いたものが多いことをいう。

 

座敷持ち親和とやらが書きんした

座敷持ちとは、吉原の妓女の中、専門の座敷を持つ高級花魁。座敷があるのだから当然床の間もあり、そこにかかっている掛軸が親和の書である、という。

親和の書は祭の幟で市中の人に親しまれていただけでなく、吉原の妓楼の中でも幅を利かせていたのである。

 

次は亀田鵬斎。どういうわけか、ほうさいではなく、ぼうさいと呼ぶことになっている。

鵬斎は越後帰りに字がくねり

鵬斎は越後遊歴より帰ってから、あの曲がりくねった草書を書くようになったという、鵬斎はこの遊歴中に良寛に出会っており、鵬斎の曲がりくねった草書は、良寛の書の影響があるようにいう人もあるが、鵬斎のあの書風は越後遊歴以前からのものであった。

 

鵬斎の無心の手紙読めるなり

無心は、人に金品をねだること。鵬斎のふだんの字は曲がりくねって読みにくいが、無心の手紙はわけなく読める。読めなくては用が足せないのだから、読めるのは当然である。

中根香亭は、その著「香亭雅談」に、この句を漢訳して「鵬斎乞銭牘、何其易読」と、牘・読と韻を踏んで漢訳している。

鵬斎は少時三井親和について書を学んだという。その師弟がともに川柳に詠まれているのは一奇というべきである。