日下部鳴鶴と門流展

2018年6月19日

4月6日(金)から7月31日まで、札幌の小原道城書道美術館で開催されている「日下部鳴鶴と門流展」へ行ってきました。

今までも拝見したい展覧会がたくさんあったのですが、時間の都合がつかず、今回初めての訪問です。JR札幌駅から徒歩5分、札幌2・2ビルの2階です。

 

日下部鳴鶴

最初のコーナーには日下部鳴鶴作品

 

今回は日下部鳴鶴が13点、比田井天来が9点、渡辺沙鴎・西脇呉石・近藤雪竹・丹羽海鶴・山本竟山・吉田苞竹がそれぞれ3点ずつ、川谷尚亭が4点展示されています。

 

日下部鳴鶴(1838〜1922)は、中国から来日した楊守敬のもたらした大量の拓本や法帖に出会い、それまでの晋唐の法帖中心の学び方から、広く歴代の古典へ眼を向けるようになりました。とくに、それまで知られていなかった六朝の拓本に着目し、同時に楊守敬から学んだ「廻腕法」によって、独自の書の世界を拓きました。

 

日下部鳴鶴

日下部鳴鶴書六曲屏風

 

比田井天来は鳴鶴に会った時のことを、こんなふうに書いています。

 

鳴鶴先生は科学者に逢ったように、あちらの法帖こちらの手本と持ち出され、親切に説明をしてくださった。先生のお話に、君は古法帖をたくさん持っているから、それによって好きな手本を学んだほうがよい。自分の弟子は吾輩の書の悪いところばかり学んで困るなどとお話があって、道人にははじめから古法帖だけで学ぶことを教えてくださったので、道人はたいへん幸いをした。

 

鳴鶴門からはさまざまな逸材が育ちました。

まずは、鶴門の四天王から。

 

丹羽海鶴・渡辺沙鴎

左は丹羽海鶴・右は渡辺沙鴎

 

丹羽海鶴は1863年生まれ。岐阜県出身。鳴鶴が岐阜県に来遊した時に感銘を受け、翌年上京して鳴鶴の内弟子になり、10年間直接指導を受けて研鑽を積み、「海鶴流」という高い品格をもった独自の書境を拓きました。教育書道の分野でも優れた業績を残しています。門下に田代秋鶴や鈴木翠軒らを輩出しました。

 

右の渡辺沙鴎も同じ1863年生まれ。鳴鶴に入門後、鳴鶴にすすめられて巌谷一六や中林梧竹と交流し、とくに梧竹には強く惹かれるようになります。比田井天来は沙鴎について、「此の人には当代及ぶ可き人はいない。自分等の出るべき幕ではない」と語ったそうです。「楽天」二字には、梧竹に通じる造形性がありますね。

 

近藤雪竹

左は比田井天来、右は近藤雪竹

 

右は近藤雪竹。1863年生まれ。16歳で鳴鶴に入門しますが、鳴鶴が楊守敬に会ったのはその一年後。鳴鶴が作り出していった新しい世界を、雪竹もまた実際に体験していたのです。若くして「前途の進境ほとんど測るべからず」と称賛されました。楷行草篆隷の各体に通じていましたが、その中でも隷書を最も得意としたと言われます。

 

左は比田井天来。一人だけ1872年生まれです。天来についてはこちら

 

山本竟山 西脇呉石

左は山本竟山、右は西脇呉石

 

左の山本竟山も1863年生まれです。40歳を過ぎた頃から度々中国へ渡って、貴重な拓本をもたらしました。その後は京都に住み、関西の書道界に大きな功績を残しました。

右は西脇呉石。1879年生まれ。多くの教科書に作品を揮毫し、詩や画にも親しみました。

 

川谷尚亭 吉田苞竹

右は川谷尚亭、左は吉田苞竹

 

右は川谷尚亭。1886年生まれ。1927年に『楷書階梯』、翌28年には大著『書道史大観』を著しました。47歳で没しましたが、叙情的で清澄感溢れる作品は、現在も多くの人に愛されています。

左は吉田苞竹。1980年生まれ。「碑帖大観」50巻を刊行した後、月刊「書壇」の発行を開始。伸びやかで世俗を超越したような独特の味わいをもつ書です。主宰した書壇院は、今も活発な活動を続けています。

 

 

なんとも心地よい空間でした。決して奇をてらうことなく、穏やかな中に強さを秘めた作品の数々は、じっと見つめていると、それぞれの作品から静かな主張が聞こえてくるようです。

それを支えているのは、もしかしたら、刹那的に沸き起こる感性だけではなく、昔から受け継いできた、そして書を愛する人ならだれもが共有できる知の世界。そして、楊守敬来日によって大きく飛躍した古典の世界なのかもしれません。

 

各書人からのリンクは、別府史風さんの連載「近代日本の書」(天来書院ホームページの「読み物アーカイブス」に収録)です。

ただし、吉田苞竹だけは書壇院のサイトにリンクさせていただきました。

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書道