小樽にある旧青山別邸(にしん御殿・小樽貴賓館)は、にしん漁で莫大な財をなした青山家が、大正六年から六年半余りの歳月をかけて建てた豪邸です。
平成22年、国より登録有形文化財に指定されました。瓦をいただいた板塀が重厚な雰囲気です。
旧青山家は祝津の網元で、小樽から留萌にかけていくつものにしん漁場を経営し、1914年(大正3年)頃には1万石(7500t)以上もの水揚げがあったそう。現在の価格に置き換えると約25億円だというから、びっくりしちゃいます。
その建物を維持しているのはオーナーの佐藤美智雄さん。札幌市議会議長をつとめた方で、古い建築資材を使い、くぎを使わない当時の方法で修理をするなど、歴史的建造物を理想的な形で後世に伝えるべく、最大の努力をしていらっしゃいます。
すごいのは18室ある部屋のそれぞれに趣の異なった美術品が置かれているのです。
1階は、それぞれ趣向をこらした10の和室があり、すべてを開け放つと100畳の大広間になります。池大雅の額が見えます。
2階の中村不折の間です。飲中八仙歌を書いた襖書。
その隣にあった六曲一双の屏風。不折の書の特徴が遺憾なく発揮されたすばらしい屏風です。
これは「比田井天来の間」です。三代目、青山民治が当邸の完成に感激し詠んだ漢詩を、比田井天来が青山家に逗留して書いたもの。ゆったりとした筆運びが、ふところの広い、雄大な趣を産み出しています。
襖の向かい側には、明るい窓。
窓の先には小樽の海が見渡せます。すばらしいシチュエーション。
天来がこの作品を書いたのは大正8年です。
この年は4月末から松江に行き5月初めに帰京。5月から11月まで北海道全道をまわり、帰途弘前をまわり、年末に帰京しました。上は小樽滞在中の比田井天来(前列中央、ひげのある人)。後列左端の比田井雄太郎さんの手記が残されています。
大正八年夏、先生はかねてよりの書道館(書学院)建設を実行に移そうと計画中であった。鳴鶴先生門下の田中氏のお誘いで北海道に遊歴して、各地で大歓迎を受けた。私はお盆の七月十五日に上野駅から夜行で発ち、青函連絡船で函館の朝景色を眺め、直行して小樽駅に十時頃着き、人力車で法帖や画仙紙を持って先生のお宿本行寺に到着した。
各地財界の景気高騰にともない、東京では日当一円位のところ、この地では漁業期に入り、日当五円位していたから、「書道館建設の辞」が発表されると、揮毫の依頼が殺到した。小樽、札幌、旭川、岩見沢、夕張、室蘭、苫小牧、帯広、釧路、根室、網走、美幌、留萌、函館などを随行して遊歴し、十二月一日に弘前に着き、大雪の寒さを味わって、中旬に鎌倉に帰った。この間、札幌の美しい街並みや十勝平野の雄大さを眺め、釧路では有名なガス(靄)の中を幌馬車に揺られ、夢の国を旅する心地であった。アイヌ部落を見学し、網走海岸を浜歩きし、遠く千島列島を望むなど、再び見ることのできない貴重な体験をさせていただいた。ある時は漁師町の旅館に泊まり、虱に攻撃されて辟易したこともあった。
上掲抜粋の前後の文章は「知られざる比田井天来」にあります。
雄太郎さんの手記にあった「書道館(書学院)建設」。上はその賛同者です。犬養毅や嘉納治五郎、松方正義の名前が見えます。
書道の総合的な研究機関を作ろうとする「書学院建設趣旨書」は大正8年、旅行中に書かれました。下に抜粋します。
書学院建設趣旨書
書は昔から東洋で尊重されている。優れた書は、作者の心が芸術的に美化されて点画の中で活躍し、見る人の心と共鳴して高遠な妙境に導き、俗世間から超越できる。さらにこれを学べば、心は霊妙な暗示を得、いかに偉大な感化を受けることであろう。
一時期書道が衰退した理由は二つある。一つは人間がこざかしく誠意に欠けたこと。もう一つは細かい流派に分かれ、書の大海を忘れてしまったことだ。書の大海とは歴代の古典名品である。ああ、流派はなんと我が文芸に害毒を与えてきたことだろう。今こそ従来の弊害を打破し、書道研究の一大革新をはかる時だ。誰でも歴代大家の劇蹟を閲覧でき、自由に古典を選んで学べる研究所として書学院建設の急務を絶叫するものである。 (天来)
書の大海とは歴代の古典名品である。ああ、流派はなんと我が文芸に害毒を与えてきたことだろう。
大正8年、今から98年前に書かれたこの文章は、その後の書道界に警鐘を鳴らし続けることでしょう。