GW最初の4月29日にお花を見に行きました。有名なネモフィラは大混雑。でも、本当によかったと思うのは、絶景の中にたたずむ六角堂でした。
常磐線勝田駅では、ネモフィラを見ようと行列ができていました。バスで15分ほどで国営ひたち海浜公園に到着。この先に、世界の絶景とうたわれる(ちょっとオーバー)ネモフィラの丘があります。
その前に、これは「鬱金」という桜。きれいでした。(じらしているわけでは、、、あります)
ネモフィラはこっちですよー。
遠くに見えるネモフィラの丘。ほんとに、空に海があるみたいです。うーん、すごい人混み。
手前には菜の花。こちらも満開です。夢の中のようですね。(人がいっぱい)
でも、場所を選ぶとこんな写真も撮れます。美しいですね。青い空の下、どこまでも続くネモフィラの海。
可憐な青い花が、お陽さまの光を浴びて、空に向かってひたむきにのびていくよう。
それにしても、すごい人! ちなみに、お昼を食べようと思ってもお店を探すのたいへんです。お弁当を買って公園の中で食べるのがおすすめ(公園は広い)。屋台もあります。晴れていればですけどね。
突然、景色が変わりました。ここは、岡倉天心が建てた六角堂。正式名は「観瀾亭」(かんらんてい)と言います。同じ茨城県の五浦海岸にあります。東日本大震災で崩壊してしまいましたが、平成24年4月に再建されました。
素晴らしい絶景の中に建っています。東京美術学校(現・東京芸術大学)初代校長だった天心は、明治31年に排斥され辞職し、入谷に日本美術院を創設します。そして明治38年に家族を連れて五浦に移住し、横山大観や下村観山、菱田春草、木村武山を住まわせ、明治39年、ここ五浦に日本美術院を移したのです。
海に向かって建っているのが「日本美術院研究所」。ここで大観らが作品を書きました。革新的な作風は「朦朧体」と呼ばれ、当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びましたが、信念を貫き、後の名声へと続くのです。
燃え上がるような芝桜のビンク色! 岡倉天心と門下たちの情熱が息づいているようです。海の絶景と芝桜。こんなに美しいのに観光客はまばらです。みなさん、五浦海岸に行きましょうよ!
最後は天心の住居と「亜細亜はひとつ」と刻された石碑です。「ゆこゆこネット」というサイトで、二木三介さんがすばらしい文章を書いていらっしゃるので引用させていただきます。
天心は、この六角堂にこもって読書や思索に時間を費やし、または天空と海原を眺め大自然と一体となって瞑想にふけった。あるいは自ら「五浦釣人(いづらちょうじん)」と称し、古代中国の隠者のような独特の釣り着を着て、波が穏やかな日には舟を漕ぎ出しては海釣りをする生活を楽しんだという
当時の天心は、アメリカの「ボストン美術館」の中国・日本美術担当者として美術品を収集する仕事に従事していたものの、かつてのエリート文部官僚や東京美術学校校長などを歴任していた華々しい時代に比べると、在野にあって不遇の時代だった。その一方で、英文で発表された『茶の本』『東洋の理想』『日本の覚醒』といった優れた著作は、五浦海岸で思い巡らせたことが元になっているとされている。
《……私たち日本人は茶の湯や自然を愛でる平和で風流な暮らしをしていました。だが、それを貴方たち西洋人は野蛮といい、私たちが満州戦線で大殺戮〔日露戦争のこと〕を始めると、文明国とみなすようになりました。おぞましい戦争が文明国の資格というなら、私たちは野蛮人のままで結構です。芸術や理想に当然の尊敬が払われる時代はいつ来るのでしょうか……。》(1906年=明治39年刊 『茶の本』の大意。原文は英語)
こうした問いかけは、和・漢・洋のいずれの教養にも精通した文化人であった天心ならではのもの。同時に、21世紀の現在にも通用する鋭い警世、文明批評になっている。
日本ブームと言われ、たくさんの旅行者が日本を訪れています。でも、そんなことを喜んでいる場合じゃないかもしれない。そんなことを考えた旅でした。
(お酒の話は次回)