2013年6月27日

比田井天来・小琴顕彰 佐久全国臨書展 作品募集

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第2回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展の作品募集が始まりました。






佐久市のホームページでも紹介されています。締切は9月10日、募集要項はこちらです。
去年の受賞作品を紹介しています。比田井天来賞と小琴賞一般部受賞作品高校部受賞作品

さて、臨書とは、現代人の手本ではなく、1000年以上前の書の古典を手本にして学ぶことですが、臨書が学書の基本であることを広めたのは比田井天来でした。

大正5年、書道教育界に大事件が起こりました。中学校の書道教員になるためには字がじょうずであればよかったのですが、突然、検定試験に古典の臨書、そして口頭試験には古典の鑑定が課されたのです。受験生を指導していた人がある雑誌で「文検には古法帖まで手を伸ばす必要はない」と断言し、その雑誌が発行された翌日に文検が実施されたのですから、書道教育界は大騒ぎ。
その時の検定委員が比田井天来だったのです。
では、なぜ臨書をしなくてはいけないのでしょう。


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上は比田井天来の臨書集「天来習作帖」からの抜粋です。実に多彩な表現が生まれています。
書道というと、先生にお手本を書いてもらい、それを学ぶというイメージがあります。そして、先生そっくりの字が書けるようになって、それでおしまい。
でも古典を臨書すれば、その筆法を理解することができますから、いろいろな古典を臨書して、多彩な筆法を理解することにより、それらのいずれとも異なった独自の書を書くことができるようになるのです。だからこそ「書は芸術である」といえるわけですね。
天来は臨書によって筆法を発見しましたが、生涯臨書を続け、その書は変貌を遂げ続けました。

最後に、天来がもっとも嫌ったのは「流派」であることを付け加えたいと思います。

 書は昔から東洋で尊重されている。優れた書は、作者の心が芸術的に美化されて点画の中で活躍し、見る人の心と共鳴して高遠な妙境に導き、俗世間から超越できる。さらにこれを学べば、心は霊妙な暗示を得、いかに偉大な感化を受けることであろう。
 一時期書道が衰退した理由は二つある。一つは人間がこざかしく誠意に欠けたこと。もう一つは細かい流派に分かれ、書の大海を忘れてしまったことだ。書の大海とは歴代の古典名品である。ああ、流派はなんと我が文芸に害毒を与えてきたことだろう。今こそ従来の弊害を打破し、書道研究の一大革新をはかる時だ。(書学院建設趣旨書・大正8年)

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