2013年2月18日

王羲之の子ども時代は暗かった?

「書聖」と呼ばれ、聖人君子のイメージが強い王羲之。でも本当にそうなのでしょうか?






王羲之は、名門の家に生まれながら、子どもの頃は訥弁(うまく話せない)だったと言われています。

あるとき、名族、郗鑒の使者が婿選びにやってきたとき、それを察した若者たちがそれぞれすましこんでいる中、ただ一人、ベッドの上に腹這いになり、我関せずと、何かを食べている若者がいた。使者からそれを聞いた郗鑒は、これこそ自分が求めている婿だと言い、それが王羲之だったというエピソードがあります。さすが羲之! 肝がすわっている!!

でもこの二つのエピソード、なんだか矛盾しているように感じませんか?

王羲之の父親、王曠の名前は、正史にありません。羲之が7歳の時、王曠は劉聡の軍と戦って敗れます。皇室は王曠と親族関係にあったため、この不名誉をかくすべく、正史から王曠の名前を抹殺したと考えられます。羲之は父の汚名をかぶって成長したため、人付き合いがうまくなかった。そして婿選びの時も、まさか自分が選ばれるはずがないと考えていたのではないか。しかし、次第にその才能が認められ、政界で重んじられるようになった。

新刊『王羲之の手紙』には、上記以外にも、「書聖」という聖人君子のイメージとは異なった王羲之の人間像がたくさん紹介されています。

族長として、家族の健康を思いやる人間性にあふれた王羲之。
不老長寿を願い、薬草を栽培し、研究した王羲之。
政界から離れ、逸民として、風流に暮らすことを願った王羲之。

岷山山脈.jpgこの写真は世界遺産の一つ「岷山山脈」です。( 写真提供:㈱ホットアルバム社、きれいカメラギャラリー
王羲之となんの関係があるかって? 『十七帖』の中に、この地名があるんですよ。

しょくと帖.jpg13番目の「蜀都帖」です。マークした部分に書かれているのは「汾嶺・峨眉」、今の岷山山脈と峨眉山です。世界遺産になっている景勝地へ旅をすることを、王羲之は夢見ていたのです。

聖人君子ではない、王羲之の人間像。これを理解することで、書への理解も変わってくるかもしれません。
だって、王羲之の書は、意味のない文章ではなく、心情を吐露した手紙なのですから。

新刊「王羲之の書ー十七帖を読む」。

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