2010年9月 8日

魔法の時間 第9回 父のこと

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何度も書いたように、私は母方の祖父母の家で生まれ、育った。



勉強を教えてくれるのは祖母、遊んでくれるのは叔父や叔母たちだった。母は出かけてばかりいたが、その日あったことを一番話したいのは母だった。洋服やいろんなものをたくさん買ってくれた。

それに比べ、父と会う機会はあまりなかった。別に仲が悪いわけではなかったが、ほとんど遊んでくれなかった。ちょうど役場をやめて会社を立ち上げたときだったので、明け方まで仕事をし、翌日はお昼まで寝ていた。夕食のときはみんなといっしょに食堂にいるが、お酒を飲んで酔っ払ったあと、また仕事をする。息子や娘がどうしているかはあまり興味がないらしかった。逆に私が気を遣って何か話しかけても、からかわれるのがおちなので、ほっておくことにした。母が他界していっしょにお酒を飲むようになるまでは、ずっとそんな風だった。
子どもが見ているテレビの漫画番組(昭和30年代だからアメリカのもの)が好きで、大笑いをしながら楽しんでいた。一度私に「人間は誰でも、他人より優れていることがひとつはなくてはいけない。あんたはあるの?」と聞いたことがある。私はくやしくて、「テレビの番組を知ってる」と答えた。父はすごくおもしろがり、ことあるごとに、人にその話をした。
ある日、ラジオからフルートの音色が流れてきたことがある。よく聞くメロディーだった。母が「これを吹いているのは叔父さんよ」と言った。何の意味かよくわからなかったが、そのままにした。

母方の親戚のお墓は目黒にあったが、毎年、1月4日には、母といっしょに、北鎌倉建長寺のそばにあるお墓にお参りに行った。敷地の一番手前に古びた木造の建物があり、知らない男の人が住んでいて、母はいつも手土産を渡した。時々誰もいないこともあった。その奥にはバナナの樹やいろんな草が生い茂る、荒れ果てた広い庭があって、さびれた建物がたっていた。左手奥の岩肌が削られて、古いお墓がたくさんあった。お墓参りのあと、そばに住んでいるおばあさんに挨拶するようになったのは、しばらく経ってからだったと思う。
あの人誰? 伯母さんよ。

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そういえば、父はこんなことを言っていた。
最高裁までいったんだ。裁判長が「あなたは実の姉を暗いところへいれるつもりですか?」と聞くので、「しかたありません」と答えたんだ。ぼくは喧嘩犬のようだといわれた。毒を飲まされたり、やくざに脅されたりしたので、たたかわなくてはいけなかったのだ。
そこに同席していた家族は何も言わなかったが、父と同じ見解のようだったので、私は何も聞かなかった。しかし、鎌倉のお墓が父方の祖父母のもので、父が住んでいた家には知らない人が住んでいること、どうやら裁判は終わり、父の兄弟とはつきあっていないらしいことだけはわかった。
一人だけ、千鶴子さんという絵描きさんは時々尋ねてきて、父を「すすむちゃん」と呼んだ。

さて、この話には当然続きがある。母の通夜に、若い女性がお参りにきてくれた。父の弟の長女だった。父は「ぼくはこの家族とはつきあっていません」とひどいことを言ったが、当然まわりがなだめて、お通夜はとどこおりなく終わった。そして私は、ほかにも従姉妹がいること、私たちと喧嘩したいわけでもないらしいことを知り、そうこうしているうちに、一度会おうということになった。
父と叔父は三十年ぶりの再会だった。喧嘩でも始まったらどうしようかと心配したが、最初から意気投合し、再会を喜び合っていた。叔父は、顔も雰囲気も動作も、そしてたぶん思考回路も、父そっくりだった。そしてそれぞれの子供たちも気が合って、最初からなんの遠慮もなかった。話に花が咲き、みんなよく飲んだ。会うのははじめてでも、やっぱりいとこだ。そんなわけで、そのあとも時々いっしょにお酒を飲む。

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後から聞いたことをまとめると、どうやらこんなことらしい。
父方の祖父母が他界した後、長女である伯母、ゆり子が家の切り盛りをしていた。末の弟は戦争から復員していたが、重い病気にかかっていた。長男は若くして他界したので、財産は次男である父が継いだが、資料的に貴重なものであるというだけで、生活のたしにはならなかった。高価な治療代を捻出するため、伯母は内緒で資料の一部を売り始めた。これを知った父は激怒し、役場をやめ、退職金で、売られた資料を買い戻そうと奔走し、伯母を訴えた。伯母の味方をした叔父とも絶好したが、どちらにもつかなかったもう一人の伯母とはつきあっていた。
悪意があった人は誰もいない。でもみんな、少しずつ自分本位で、話し合いを先延ばしした。そのためにちょっと大規模な兄弟喧嘩が起こり、長く続いた。でもみんなたくましく、書を教えたり、ガラス工房を作ったり、フルートの楽譜を出版したり、特殊な印刷会社を作ったりして寿命を全うした。なんだか楽しい兄弟たちではないか。
父は母と結婚した直後、一時は鎌倉に住んだようだが、結局母の実家に落ち着いた。実家は仏教でも無宗教を自任していた父は、キリスト教とは一線を画していた。そして、自分の子供たちの教育については、決して口を出さなかった。子供たちを撮影した8ミリフィルムがたくさん残っているのだから、関心がなかったわけではないだろう。父に口を閉ざさせたものは、裁判などで世話になったことの感謝や遠慮、さらに教育に関する考え方の、決定的な相違だったのだろう。母の家族と議論はしても、感情的な口論をすることはなかった。
家族旅行をするときも、家族で食事に行くときも、一人だけ家に残って仕事をしていた父。クラシック音楽が好きで、いつもアトリエにこもり、一人で音楽を聴いていた父。そんな父を、私が誰よりも尊敬していたことを、父は知っていたのだろうか。

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