2010年5月17日

魔法の時間 第5回 港の見える丘

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私の家は、横浜の外人墓地のすぐ下にあった。南側一帯は、今は整備されて元町公園と呼ばれているが、私が子供の頃は素朴な遊歩道があるだけだった。遊歩道は今もそのまま残されているが、途中で港が見える場所にベンチがあったり、一段低い場所に広い弓の道場があったり、なかなか楽しい道だった。木々が生い茂り、少しひんやりした。


秋には椎の実やどんぐりをたくさん拾った。椎の実は炒って食べたが、どんぐりは食べてはいけないと教えられた。今は、蕎麦にどんぐりを粉にして練りこんだりしているから、迷信だったのだろう。歩いていく途中に粘土質の土が採れる場所があり、時々粘土遊びをした。遊歩道へ行かずに丘を上まで登ると、外人墓地の上に出る。ここにくると、墓地の向こうに街を見下ろすことができた。西の山に真っ赤な夕陽が沈む頃は、とてもきれいだった。

外人墓地など s.jpg
船.jpgそのまま東のほうに歩いていくと、草の生い茂った広場があり、遠く港を望む小高い丘になっていた。外国からの客船が着いたときにはよく見に行った。草の上に座って見る船はとても小さくて、人の姿までは見えなかったが、遠くから旅をしてきた人々の記憶が乗り移ってくるようで、なんだか楽しかった。ここが今の「港の見える丘公園」だ。ススキがたくさん生えていたので、月見のときにはこれをつんで、おだんごや栗などといっしょにお供えにした。


近所の子供たちとはよく遊んだ。
もっと小さかった頃、近所の元気な子供たちはみんな年上で、私は「おみそ」、いわゆるみそっかすだった。私が仲間に入ろうとすると、「和子ちゃんが来た」といってみんな逃げた。
少し大きくなると、同じ年頃の子供たちと仲良くなった。魚屋さんや八百屋さんの子供たちだ。アスファルトの道に蝋石やチョークで絵を描いたのは、小学校に入ってからだったろうか。八百屋のみっちゃんが一番上手だった。缶蹴りやボール投げをして遊んだ。「ひまわり合戦」という遊びもはやっていた。日が暮れる頃、「ごはんよ」と呼ばれて家に帰った。
時々紙芝居やしんこ細工、あめ細工の人が来た。とくに好きだったのはしんこ細工で、小さいはさみを使って鳥や花やいろんなものを作っていく。しんこははさみにくっつく気配も見せず、すぱっと切れるので、なんとなく爽快でいつまでも見ていた。
家の隣に子供プールがあって、夏は子供たちがたくさん来た。一時間ごとだったと思うが、チャリンチャリンと時間を知らせる鐘が鳴った。夏以外は使われていなかったので、金網を乗り越えて中で遊んだ。水がない水槽の中ではボール投げやキャッチボールをしたが、ほかのグループが使っているときはまわりで絵を描いたりした。少し後になると、ローラースケートが流行った。

家から数分で元町商店街に出る。白いアスファルトの道をはさんで、店員が英語を話すしゃれた店が軒をつらねていた。今のように車は多くなく、犬を連れた外国の婦人が散歩をしていたり、異国情緒が漂っていた。
母や弟といっしょに何か食べるのは、今はなくなってしまった「ジャーマンベーカリー」。生クリームがたっぷり乗ったバウムクーヘンや、ちょっとすっぱい黒パンの上にサラミやチーズが載ったオープンサンドイッチと緑色の豆のスープを覚えている。もうひとつの店は「きくや」で、ここで食べたのはバニラアイスクリーム。足のついた金属のカップはすごく冷たいので、できるだけさわらないように食べた。今もケーキが人気のレストランだ。
町の中ほどに高級子供服を売る店があり、きれいな服を買ってもらった。大好きだった真っ白いうさぎの毛皮のコートには、大きなボンボンが二つついていた。母はいつも私に赤やピンクの服を着せたが、あるとき私が「赤いおべべはいやよ。模様のおべべがいい」といったそうな。母はそれを言うとき、うれしそうだった。
元町に沿って運河があり、船の上に人影が見えることがあった。その人たちは何か遠慮がちで、陸に住む人たちを避けているようにも見えた。

「きくや」の角を曲がると、この運河にかかった橋があり、そのまままっすぐ行くと南京町、今の中華街だ。南方からの移住者が多かったのだろう。今も広東料理がメインだ。私たちが食事に行くのは決まって「華勝楼」という蘇州料理の店だった。二階建ての広い店で、一階に水が流れるスペースがあって鯉が泳いでいた。(今もそうだと思う。)二階に個室がたくさんあり、家族そろって一部屋を陣取った。私と弟は、部屋の中を走り回ったり、1階の鯉を見に行ったり、忙しかった。

華勝楼.jpg料理は、前菜から始まってスープ、えびのてんぷら(塩で食べる)、カシューナッツと鶏肉と野菜をいためたもの、かに(だと思う)がたっぷり入った太目の春巻きのような揚げ物、豚ばら肉の煮込みに青菜添え、鯉の唐揚げに千切り野菜が入った甘酸っぱいあんがかかったものなどで、最後はザーサイと白いご飯が出る。とにかく量が多かったので、弁当箱を持参して食べ残しを持ち帰った。鯉はからっとあがっているので頭まで全部食べられのだが、これが出る頃には全員おなかがいっぱいで、お持ち帰りのメインになるのが常だった。

横浜港が近かったので外国人が多く、アメリカの水兵たちをたくさん見かけた。ガムをかみながら陽気にしゃべる大柄な男たちは、もちろん怖かったけれど、どこか垢抜けて見えた。
向かいの家に、あんこちゃんという女の子が越してきたのは、小学校に上がってからだったろうか。お父さんがいなくて、ちょっとさびしそうだった。私が母のことを「ママ」と呼ぶようになったのはあんこちゃんの影響である。よくいっしょに遊んだが、いつの間にかいなくなってしまった。今はどうしているだろう。

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