2010年4月16日

魔法の時間 第4回 幼稚園

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今の私からは想像もつかないことだが、幼稚園から小学校低学年の頃、私は食が細かった。



母は私に食べさせるために、いろいろ工夫をした。そのひとつは、歌を歌いながら食べさせるというものだ。「おいもの煮えたのご存じないか」と歌いながら、できたてのサトイモの煮っ転がしを楊枝でさして、私に食べさせた。子供というのは、楽しそうだとついうっかり食べてしまうものだ。
もうひとつはお葉巻きごはん。白菜の漬物にしょうゆをつけて、ご飯を巻きながら食べるというものだ。ご飯と漬物としょうゆの組み合わせは、完璧な三位一体に思えた。

食が細かっただけではなく、この頃の私は体が弱かった。やせていて、貧血気味だったのだ。朝、起きようとすると、祖母に「もっと寝ていなさい」といわれて、また布団にもぐりこんだことがよくあった。今の朝寝坊好きはこの頃の名残に違いない。

もっと幼いころの私は太っていた。祖父母にとっては最初の孫、両親にとっては最初の子供、叔父叔母にとっては最初の姪というわけで、誰もが私に笑顔を向け、可愛がってくれ、一緒に遊んでくれた。それが突如、幼稚園という見知らぬ世界が、ぽっかりと現れたのである。
同じクラスの無愛想な子供たち。誰も私を褒めてくれず、笑いかけてさえくれない世界で、私はとまどっていた。そして、幼稚園から自然に足が遠のいた。それでも母に連れられて幼稚園に行くと、先生は「和子ちゃんが来ましたよ」といって、子供たちに拍手をさせた。子供思いのいい先生だったけれど、そんなふうに特別扱いされるのはあまりうれしくなかった。週に一日くらいの割合で幼稚園に通ったと思うが、教会附属の幼稚園だったので、最後の年のクリスマスで聖母マリアの役をもらった。白いベールをかぶり、小さな桶の前に座っている写真が残っている。ほかの子どもたちは天使や星の役だったのに、ちゃんと通わなかった私がマリア様なのはなんとなく納得がいかなかったが、誇らしくもあった。子供は勝手なものだ。
もうひとつ、幼稚園のときの写真がある。卒園式の写真だ。丸めた卒園証書をもって、背中を丸めてみんなと一緒に写っている。このとき私は貧血を起こし、写真撮影のときだけ起きていた記憶がある。

幼稚園.jpg小学校からは、毎日学校へ行った。私立のキリスト教の小学校で、市電を乗り継いで30分かかる。体が弱かったので、低学年の頃は毎日運転手つき自家用車で送り迎えをしてくれた。往きはとにかく、帰りはお友達といっしょに帰りたかったので、車に乗るように誘うのだが、いつも「悪いから」と断られた。断られるととても悲しかった。
それでもだんだん友達ができ、なんとか同年代の社会に適応できるようになった。健康を損なわないように、祖母や母は私にたくさん食べさせたので、とても太った。

私は寝つきが悪かったので、寝る前に母がお話をしたり、絵本を読んでくれた。読み終わると「もう一回」と、何度もせがんだ記憶がある。早く寝かせつけるために、最後はバターを作るお話になる。「牛乳をかきまぜてバターを作りますよ。たくさんかきまぜないとバターにならないから、何回もかきまぜるのよ。グルーリ、グルーリ、グルーリ・・・・・」。羊を数えるようなもので、なんとなく寝てしまったらしい。
そうこうするうちに字を覚えていったのだろう。「幼稚園」「たのしい幼稚園」「キンダーランド(だったと思う)」などの雑誌は、後ろにある「おかあさんのページ」まで読んだ記憶がある。紙面に目を近づけて読むので、目が悪くなるからと、あまり本を買ってくれなかったのだ。たしかに小学校にはいって最初の視力検査では、読書のせいかどうか知らないが、両眼とも0.4しかなかったけれど、一年生の国語の教科書は5分ですべてを読んでしまってたいくつだった。
私は本が大好きになり、たくさん読みたかったが、母は買う本を厳密に選んだ。自分は大衆的な時代小説などを読んでいたのに、娘はできるだけ無垢なままに育てたかったらしい。キリスト教的な倫理観に裏づけされた本がほとんどだったと思う。
『小さなおうち』という絵本があった。静かな田園風景の中に建っていたちいさな家。ところがだんだんまわりがにぎやかになってたくさんの家が建ち、ついに高いビルに囲まれてしまう。日もあたらず、喧騒の中で、家は生きた心地もなく傷ついていくが、心ある人が静かな郊外へ家を移動して、また楽しい日々がよみがえる。絵もきれいで、私のお気に入りだった。

母が選んだたくさんの本たち。謙虚さや思いやり、誠実さ、やさしさに満ちた物語の数々。本はとうになくなってしまったけれど、その思い出は今も私の大切な宝物だ。

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