2010年2月12日

魔法の時間 第2回 三角の目

 ある日、私は怒っていた。小学校に上がる前だったと思う。母は、多分約束を破ったのだと思うが、私をなだめるために、冗談を言ったりして気をそらせようとしていた。

 突然、母がこう言った。「あっ、天来の目。天来が怒ると、目が逆三角形になるのよ。天来が怒った目だ。」そういって笑い出した。 テンライって何だ。そんなモノは知らない。そして私は、母のことばを無視して怒り続けたのだったが、その後も時々、母に同じようなことを言われた。テンライという語は知らない動物の名前みたいで、なんだか不気味だった。だいたい、失礼ではないか。人が怒っているのにからかうなんて。

 私は母方の祖父母の家で生まれ、育った。 祖父は、私が小学生の頃他界したので、よく覚えていない。祖母は理論家で、今は亡き岡部蒼風先生が「マッカーサー」と呼んだほど、自分の意見を通す人だった。家族の誰もが、(私の父を除いて)祖母の意見に従ったことはいうまでもない。 長女である母はいつも祖母のそばにいて、アシスタント的な役割を果たしていた。といっても、決して従順であったというわけではない。夫とともに書家として活動をし、社交性のない夫に代わって、書壇の人々とのおつきあいをしていた。「おれが家内で、お前は家外だ」と夫に言われるほど、昼間は(時々夜中まで)家にいなかった。

 母の弟は大学教授だったが、流体力学を研究し、それと同時に内村鑑三研究にも没頭していた。私が生まれる前、家族でおこなっていた日曜学校では、中心になって活動していた。話がうまく、人を惹きつける魅力にあふれていた記憶がある。子供が好きで、私は父よりも叔父に遊んでもらったことのほうがずっと多い。家にテレビが来る前、「やんぼうにんぼうとんぼう」や「お話でてこいのおじさん」などをラジオで聞いたのは、陽光にあふれた二階の叔父の部屋だった。歌がうまくて、童謡をたくさん歌ってくれた。

 末娘である叔母は、母と一回り年が離れている。心理学を学び、博士号をとった。後に大学教授になったが、若い頃は家族の誰よりも忙しそうだった。女が学問をすることがたいへんな時代だったのである。
 夏のある日、叔母といっしょに沖まで泳いで行き、大きな波に襲われたことがあった。空を覆い隠すように高くそびえる大波の恐ろしさは、いまもまざまざとよみがえってくる。体の力を抜いて両手で叔母の肩につかまり、浜まで連れ帰ってもらったのだから、かなり小さい頃だったろうと思う。こわかったが、翌日からまた平気で泳いでいた。心理学者だけあって、私に恐怖心を植えつけなかった。さすがだ。

叔父叔母と.jpg 「酒はきちがい水だ」という内村鑑三の教えに従い、家族は誰も酒を飲まなかった。例外は父である。「おれが家内だ」ということばのとおり、外へ行くことはほとんどなく、毎日晩酌を欠かさなかった。ビールから始まってソーダ割のバーボンウィスキーをかなり飲むのだから、みんなはたまったものではない。
 酔っ払った父の相手をするのは祖母だけだった。よく「もうあんたとは話をしない」といって無視していたが、二人の議論はおもしろかった。酔っ払っていても結構論理的でいられることを、私は子供の頃から実感していた。

 このようなわけで、私は父方の祖父母については何も知らなかった。
 小学校三年生のときの書道の時間、先生に「比田井って珍しい名前だけど、比田井天来と関係があるの?」と聞かれた。「わかりません」と答え、家に帰って母に聞くと、笑い出して「あんたのおじいちゃんよ」と言った。翌週「おじいちゃんです」と答えると、「じゃあ、比田井小琴はおばあさまね」ときた。聞くなら一度に聞いて欲しいと思ったが、仕方なくまた母に聞いた。おばあちゃんだった。

 「テンライの逆三角形の目」の意味がようやくわかったが、私の両親は私に書道を学ばせようとしなかった。練習するとへたになるというのが、両親の考えだったのだ。
 ある年、書初めの宿題が出た。私は父母の前で作品を書き、ものすごく褒められた。ところが学校に提出すると、あまりいい点数ではなかった。母はびっくりして学校へ行き、先生と話をしたらしい。その後は点数がぐんとよくなったが、書道の価値基準が人によって違うことがわかり、ますます書道から離れてしまったのだった。

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