2009年10月 2日

石田栖湖先生

百川異流s.jpg
今日は久々に書道のお話しです。銀座カトレアサロンで開催中の「石田栖湖生誕百年記念書展」。簡素な響きをたたえた石田先生の世界を味わってみませんか。




石田栖湖先生(1910-1987)は北海道出身、1927年に札幌で川谷尚亭と出会い、1934年に上京して比田井天来の門に入りました。

百川異流.jpg「百川異流」。自然の静けさの中に、高い響が感じられます。

無垢.jpg「無垢」。あどけない表情です。

衆星.jpg「衆星」。今から3000年も前に書かれた書体です。
「衆」という字の動きのある表情を、すっくと立った「星」が受け止めています。

このような作品の背後には、「臨書」があります。3000年の書の歴史の名品をすべて学んで、多彩な作品を書くための技法を身につけるのです。

w王羲之尺牘.jpg「書聖」と呼ばれ、最も尊敬される王羲之の手紙の臨書です。

w石田臨張黒女墓誌.jpg張玄墓誌(張黒女墓誌)の臨書です。細く直線的な要素が強い線です。

w石田臨論経書詩.jpg鄭道昭が書いた「論経書詩」の臨書。威厳がありますね。

w石田臨南円堂銅燈台銘.jpg「南円堂銅燈台銘」の臨書。厚みのあるこっくりとした線です。
上の三つの臨書を比べてください。多彩な美を見事に表現しています。

最後に

w石田臨王献之s.jpg王羲之の息子、王献之の手紙が左、右は石田先生の臨書です。
原本は石に彫られたものですから、肉筆がもつ瑞々しさや線の勢いから遠いものになってしまっています。
石田先生の臨書は、原本の味わいを再現しつつ、原本より生き生きとしたリズムが感じられます。つまり「臨書」は「まね」ではありません。その肉筆を想像して、それを再現するのです。

学書における基本的な建前は、書の勉強即古典の臨書だということ。しかもそれは先生の手本などを通してではなく、原本をじかに臨書することである。古典で勉強した人の作品とそうでないのとでは、その違いが覿面に現われて、一寸見は形が面白くまとめ方がうまい作でも何か底が浅く、逆に少々まずそうに見えても臨書の裏付けのある作には捨て難いものがある。結局は匂いとか格調とかの違いによるものであろう。
「写実に徹する」この建て前は重要なのである。今の時点で分からない古碑帖も段々と見えてくるに決まっているが、そうなった時この建前をおろそかにすると、本当の臨書ができないからである。(石田栖湖)

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