窓の話し
書道という芸術について、貞石の思うところが書かれたものがありましたので、紹介させていただきます。
比田井天来先生と萱沼貞石が面識があったという記録はありませんが、書家として作品に接する機会があったことがうかがえます。
比田井天来先生と萱沼貞石が面識があったという記録はありませんが、書家として作品に接する機会があったことがうかがえます。
窓
グッと太く行くかとおもうと、途中で、サッと翻して筆を傾け、その割れた一部を使って、細くつづけて書いてゆくあたり、それが、太いのに対して細く、直に対しては、それにまつわるが如く、剛に対する柔にして、よくなじみ合い、補い合い、複雑にして余分ならず、そのあるべき位置を、あるべき程度を超えず、自由の中に自然の規矩がそなわり、孔子のいわゆる、その矩を超えざるフルの状態において、美を盛りあげた感じを与えるものが、名家の筆だ。
簡にして、複雑な含みがあり、複雑にして規矩の筋を知らしめるというのも、皆、筆の穂と腹の使い分け一つによるもので、一見、人目を奪うような作品でも、熟視するにしたがって、その真の格がわかってくるもの、この間の習練の如何にかかっているものといえる。
概して、始めは、筆の腹を使って、ド太く書くものであるが、それは、心を太くして大胆に執筆することの畢竟、覇気を得ることの、第一階梯の作法なのである。これとても、意を得ることは容易ではない。しかし、窮極は、この心と境とを乗り越えて、更らに、硬軟自在のところに到りつかなければならないその作品だということを、銘記しなければならない。
天来翁の作品の一字をとってみよ。或いは、戊寅帖などを見れば、その到りついた呼吸が、いちばんよくあらわれているかとおもう。
明治・大正を通じて、芸術書の最高を行った翁の到りついた境地にはサンゼンたるものがある。学書者の、一度はうかがうべき「窓」だ。- 『萱沼貞石追想録』(第五十四話)より
吾輩が天来先生の作品をはじめて拝見したのは、昨年(2011年)の1月4日、天来先生のご命日のお墓参りに参列させていただいた日でした。書作品を鑑賞 することがほとんど無かった吾輩でも、目の前にある作品が素晴らしく感じられました。貞石がこう書いているとも知らず...(^^;)
貞石が第一に注目している点は、「筆使い(筆意・筆法)」、そして「呼吸」、「自然」、とも読み取れます。これだけ考えても、最終到達点までの階梯があることがわかります。一段階進み、また一段階進み...としているうちに途中で満足してしまってはいけませんね。先にはまだまだ道があるわけです。こんな大切なことを書き遺してくれた貞石に感謝するとともに、天来先生の名言「慣れるより習え」は、道に迷ってばかりの吾輩の道標になることでしょう。
天来先生の書作品を拝見した時に、「さあ、ここまでいらっしゃい」と優しく語りかけてくれているような気がしたのは、吾輩だけだろうか......。この懐の深さが、「現代書道の父」たる所以、真骨頂ではないかと思う吾輩です。

(縁側でのんびりする貞石)
2012年1月5日 萱沼貞石の没後50年の命日に
謹賀新年(^^)v