梧竹と明治の書 メッセージは「百代の新風」 その2

左は、日野先生が23歳のときの書です。
金もいらぬ、名誉もいらぬ、生命もいらぬといふ人物はどうにもならぬものであるが、このどうにもかうにも手のつけられぬ人物でなければ、本当の仕事はできぬ。




日野先生書.jpg淡々と梧竹研究に身を捧げられた日野先生。先生でなくては書けないすばらしい作品ですね。
それでは、図録解説の後半をご紹介しましょう。


■「百代の新風」/梧竹の書のポリシー
 古来和漢にわたって言論と称するものはおびただしく存在しますが、多くは個々の技法などにかかわるもので、「書」の理想とする在りようを具体的なポリシーとして打ち出したものはあまりありませんでした。幸いに私たちの手元には、梧竹晩年の著作「梧竹堂書話」がそのアーカイブとして残されていて、梧竹の偉大な業績を記念するもののIつとして特筆しなければなりません。梧竹はその中で、書の理念、理想のヴィジョンを極めて明確に提示しました。明治の日本人の精神構造から発したものとみることもできますが、明治文化の多くの遺産の中にあって格別の異彩を放っています。

 梧竹のキー・ワードは「百代の新風」、百代ののちまでも永遠にフレッシュな感動をよぶ書風を創造するという強烈なアピールです。「新」はマッサラ金ピカの新奇・風変わり・目立ちではありません。風変わりや目立ちには古臭いものが一杯あります。一方毎日身近にあって静かで穏やかなものにも新しい生命を失わぬものがあります。毎朝東から昇る太陽の光は、日々変ることのない新しい輝きを放って地球を照らします。伊勢神宮の神殿は「世界の建築の王座」といわれていますが、神様が20年ごとに新しい神殿にお移りになる遷宮の儀式があって、原初からの神殿のスタイルが変わることなく、永遠に新しく存在し続けています。「百代の新風」は、梧竹が明確な自覚のもとに独創した書芸術のキーワードとして、永く語り継がれていくに違いありません。

■王羲之を超える/アイデンティティの確立
 「百代の新風」は空理空論ではありません。「梧竹堂書話」全体が、梧竹の書芸術活動そのものを反映した実践の書でもあります。「百代の新風」のポリシーにリンクし、具体的に補完する内容が随所にちりばめられています。
 第6則には「書を学ぶ者は、師匠や古人のまねをするのでなく、自己の性情をもって自己のオリジナルの宇を書かねばならない。鐘瑤や王羲之にそっくりの字を書くことができたとしても、そんなものは物まね上手に過ぎず、尊ぶにたりない」とあります。「物まねはだめ」というきびしい主張、今風にいえば「アイデンティティの確立」です。書の勉強は師匠や古人のまねをすることから始まり、一生懸命に師匠とそっくりに書く稽古をして、ついにはそっくりに書けるようになった。どんなもんだと恩ったら、梧竹先生に「ただの物まね上手」と一蹴されてしまいます。実はここが書のアイデンティティ確立への犬切なスタートライン、言い替えれば師匠離れ、お手本離れのチャンスだったのです。だがYesl l canといってChangeに踏み切る人は大変に少ないそうです。お弟子さんがただただ師匠のまねをやっているのでは、生涯師匠の上に出ることはありません。書はお弟子さんの世代で一段階レベルダウンすることになります。次にお弟子さんの弟子の時代がくると、当然またもう一段階のレペルダウンです。そして時代が進むほどに、書は衰弱退化の一途をたどるほかはありません。書に将来の明るいヴィジョンを期待するなら、弟子は師匠を乗り超えなければいけない、師匠は自分を乗り超える弟子を育てなければいけない。極めてわかりやすい理屈です。私は、書家を評価するとき師匠を超えたかどうか、師匠を評価するときは自分を超える弟子をどれほど育てたかをよく評価するように提案したいと考えています。それが書の危機の防止に有効な手段となるに違いないと思うのです。
 第26則には「むかしの名人を奴隷とする者は少なく、おおかたの者がむかしの名人の奴隷となっている。むかしの名人を乗り超えて名人を奴隷とするに至れば、書は「不朽の盛事」だ」といっています。せっかく師匠につき、また名人が残した古典を学んでも、師匠を超え古典を超えて自己の書を創造することができない者は、生涯を「奴書」で終ってしまいます。師匠を離れ、手本を離れ、物まね奴書から脱却し、自己の書を創造し、アイデンティティを確立する。これが梧竹が説いた学書のポリシイなのです。それでは、梧竹がいうむかしの名人とは誰のことか。
 「梧竹堂書話」全編を冷静に熟読すれば、それが王羲之をさすことは明明白白です。梧竹が「奴隷とする」ターゲットに選んだのは、かくれもなき古今の書聖、王羲之その人でした。王羲之は、梧竹が超えようとした最大最強のハードルでした。梧竹は深い尊崇と敬慕の念を「古人」という表現に詰め込んでいます。天来書院の比田井社長が、「梧竹さんは自分が王羲之になろうと思ったのでしょうね」といわれた。「梧竹堂書話」にかくされた文字コードの秘密を見事に解読した眼力はさすがのものです。私は「そのとおりだと思います。それから彼は羲之を超えようと心を決めたんだと思います」とお答えしました。梧竹が羲之になろうと考えたのは何歳のころだったのだろうか。70歳代の終わりまでには、すでに羲之に並んだとの自覚に達しているものと私はみています。羲之を超えようと決心したのはたぶん80歳を過ぎるころだったかもしれません。

 梧竹はみずから実践したポリシーを、「清、明、元、宋、漢、秦、周、と遡って各時代の書を習い尽くし、それをリフレッシュして自己独創のオリジナルの書風を打ちたてる」と第2則で具体的に解説しています。さらにはこれらを総括して「筆意を漢魏に取り、筆法を隋唐に取り、これに帯びしむるに昔人の品致をもってし、これに加うるに日本武士の気象をもってす。これ吾が家の書則なり」という有名な結語を第9則に示しています。昨年の梧竹展−梧竹が書いた王羲之−を見てもよくわかったように、晩年の梧竹は羲之と大の仲よしになって、お互いに自分の特色を発揮し合って楽しんでいるようです。梧竹の書のポリシー理論は、その具体的形象化としての書作と表裏一体となって、「百代の新風」は「不朽の盛事」として完結しているのです。

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