有田の名品 飛龍篇の屏風

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昨年12月4日、小城梧竹展の道すがら有田町の蒲地邸を訪れた。御主人から「今年のおくんちに屏風を出しているのでおいでなさい」と声をかけられたのだ。はじめての訪問からはもう30年ほど、御主人も私もその時分は若かったが、今はそろって傘寿の歳を越えた。めでたいことだ(などと自分で嬉しがってはみっともないか?)。



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この屏風のすばらしさは、ただただ素晴らしい、それこそ素晴らしい。それ以上いうことはないのだ。あれやこれやと、いえばいうほど、ほんとの素晴らしさから遠くなっていく。それがこの屏風書の生命だ。

上の画像は梧竹4世の孫、中林秀利氏のカメラ、下は日本一流のプロ美術カメラマン撮影の画像。この屏風がもっている空気(波動、響き、光、色あい、薫り、温度、澄明度などともいえるし、液体、流動体とみてもいいだろう)を伝えるのは中林さんのカメラだ。「いうことがない」と私がいったのも、そのことにかかわっている。

この屏風が存在することで、その部屋の、家屋全体の、大きくいえば有田の町の、その時刻の地球の空気が変わるのだ。屏風から湧き出た空気が、蒲地さん、奥さん、東京からの本野さん、地元の金子さん、中林さん、私たちが坐っている空間にひたひたと打ち寄せ、部屋いっぱいに充満し、屋敷を覆い、有田の町と空を押し包み、地球をくるみこんでいく。「梧竹堂書話」に「書もまた不朽の盛事」というのはこのような書のはたらきだ。まさに宇宙大の書、後世まで大切に伝えるべき不朽の至宝だ。

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図3最新.jpg晨(あした)に泰山に遊べば 雲霧 窈窕(ようちょう) 忽ち二童に逢う
顔色 鮮好 彼の白鹿に乗じ 手に芝草を翳(かざ)す 
                                     
この書の原拠は「魏曹子建飛龍篇」として「石索」巻4にみえ、泰安府泰廟の環咏亭の壁にあり、書者は不明としている。曹植(子建)は三国志で有名な曹操の子で、曹丕の弟。すぐれた詩人で七歩の詩はよく知られている。つまり曹植の「飛龍篇」を書いた碑で、いまもその場所にあるらしい(観光ガイドにものっている)。

飛び出す映画というのがあって、赤と青の色眼鏡をかけると画面が立体にみえる仕掛けだった。梧竹の目には赤青眼鏡のような性能が生来備わっていたのではな いか、さまざまの臨書をみているとそんなことを思ったりする。梧竹の赤青眼鏡をとおしてみると、平凡な原本もたちまちに生彩を帯びて光輝を発して動き出す のだ。

石索と梧竹.jpg何も「いうことはない」といったが1つだけ。原典の「弐」はふつうの形。梧竹の「弐」は2画目の斜画が1画目横画の左寄りの位置で交差し、「二」を上の横画から距離をひらいて下におき、しかも思い切りくっつくほどに間隔を詰めた。通念とは正反対の意想外の構成だ。このほかにも1字1字精細に検証すれば、斬新な発想が随所に発見できる。

あきらめ悪いようだがもう一言。屏風の鑑賞は、画像をプリントして切り抜き、蛇腹形の折り本のように山と谷に折って、机上に立て(さらに目の高さまで持ち上げて)眺めること。べったり貼り付いた平面の画像のままでは、屏風の面白さを味わうことができない。山と谷に角度のついた画面によって文字の輝きと動きが生まれる。また山と谷がつくり出すもう一つの面白さは、屏風を左から見るのと右から見るのでは、がらりと風景が変わることだ。プリントして、切り抜いて、折って、立てて(左から、右から)見る。その手間を惜しんで手抜きする者には想像もできない秘境の光景だ。
                                                                  
蒲地氏はこの屏風を「不燃の屏風」という。氏の母堂が、深川家出の祖母から嫁入り道具として受け継いできたが、戦後の生活困難のために売却するに至った。後になって屏風の回復を思い立ち、手を尽くして所持者を捜しあて、やっとのことで半双を買い戻した。さらに残り半双も数年の苦心を重ねて所持者も探し当て、遂にもとどおり一双全体を回復することができた。あとの半双は所持者のもとで火災にあって箱が燃えていたが、中身の屏風は奇跡的に無事で、めでたく蒲地家に復帰したのだと「不燃の屏風」の数奇な因縁を語られた。

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