鶴林玉露 連綿草書の昇華

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85歳作、3メートルの長條幅4幅対。宋の羅大経のエッセイ『鶴林玉露』の一文。明るく豊かに落ち着いたこの巨幅の前では、面倒な詮索はおいて、いわゆる癒しの森の清々しい空気を思い切り呼吸するのがよい。




図1.jpg文字と文字、行と行、幅と幅の照応、連携、変化。一字一字には目立ったデフォルメなど特段の変化球はみられない。人事でいうなら適材適所による構成のすばらしさ。それもさりげない自然なたたずまい。技巧を越えた超高度の技巧。特色がないことがこの書の特色とでもいうところだろうか。

このブログの2月から3月にかけて、あのドキドキするように華麗な78歳作連綿草書長条幅を掲載したが、強いてその難点をあげるなら、超絶のウルトラ技法で世間を驚かせたいという欲望心の曇りがうっすら残っていることだ。80歳をこえて連綿草書をバージョンアップし磨き上げて昇華到達した書境は、さっぱりと雑念から離脱して得た大自在の解脱の境地だ。その書境が「鶴林玉露」の文意とよくフィットしている。

◆補注
連綿草書のブログの解説で、王羲之書法の発展的継承とわが上代仮名のイデアをブレンドしたと指摘したが、造形的にも、仮名の散らし書き的発想のフォームが、(連綿草書に限らず)全体構成のコンポジションの基盤となっていることがその一証左である。具体的には、貫之、道風、行成、俊成、西行など多くの書跡をあげることができるが、ここには俊成の「御家切古今集」を示した。朱線は例示に止めたので、右傾左傾の斜線が全面に及んで交錯しているのはもちろんである。この4 幅対では太線で示した斜線沿いのアクセントがとくに目立っている。

図2.jpg◆鶴林玉露 解釈
唐子西の詩に云わく。山は静かにして太古に似たり。日は長くして小年の如し。吾れ深山の中に家し、春夏の交毎に蒼蘚堦に盈ち、落花逕に満つ。門に剥啄無く、松影参差、禽声上下す。午睡初めて足るや、施ち山泉を汲み、松枝を拾い、苦茗を煮て之れを啜る。意に随って周易、国風、左氏伝、離騒、大史公の書、及び陶社の詩、韓蘇の文数篇を読む。従容として山逕を歩み、松竹を撫し、麋犢と共に長林豊草の間に偃息す。坐して流泉を弄し、歯を漱ぎ足を濯う。既に竹窓の下に帰れば、則ち山妻稚子は筍蕨を作り、麦飯を供す。欣然として一たび飽くや、筆を窓間に弄して、大小に随い数十字を作る。蔵する所の法帖、墨跡、画巻を展べ、縦に之れを観る。興到れば即ち小詩を吟じ、或いは玉露一両段を草し、再び苦茗一杯を煮る。出でて渓辺を歩めば、園翁渓友に邂逅し、桑麻を問ひ杭(稲)を説き、晴を量り雨を校え、節を探り時を数えて、相与に劇談すること一餉。帰って杖に柴門の下に倚れば、則ち夕陽山に在り。紫緑万状、変幻頃刻、恍として人目に可ばす。牛背の篴声両々来り帰りて、月は前渓に印す。子西の此の句を味うに、妙絶と謂う可し。此の句妙なりと然も其の妙を識る者はけだし少し。彼の黄を牽き蒼を臂にして、声利の場に馳猟する者は、但だ袞々たる馬頭の塵と、忽々たる駒隙の影を見るのみ。鳥ぞ此の句の妙を知らんや。人能く真に此の妙を知らば、則ち東坡のいわゆる事無くしてここに静坐せば、一日は是れ両日。若し七十年を活きば、便ち是れ百四十。得る所已だ多からずや。

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