奉呈悟由禅師 −−追補2(ジグソウ・マジック)

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電話やメールもいただいた。そこが迫力の書の魅力だ。「自由奔放」との評がいくつかあった。80歳代の書には「自由奔放」と評されるものが他にも多くある。一見すると勝手気ままに筆を揮ったかとみられる。だが信じられないことに、画面にはものの見事に罫線を引くことができるのだ。図版でみると、まるで罫紙か便箋にでも書いたようである。




図1ss.jpg行間の空白は消失したが、縦の行は真っ直ぐに通って、きちんと存在する。勝手気ままの「自由奔放」ではなく、見事にコントロールされた「自由奔放」であることが、このことからも実証される。

「行間消失」の章法は、和漢古今のどの書家にも例をみない、全く独創的な空前絶後の驚嘆すべき書法である。この章法が成立するためには、隣接する行と行、文字と文字の間に、ジグソパズルのように緊密な整合性がなくてはならない。また遠近感の調和も失われてはいけない。超絶の筆技と周到なコントロールに裏付けられた成果である。この章法は「自由奔放」ではなく「天衣無縫」というべきだ。

私が提案した「ジグソウ・マジック」の呼称もかなり定着してきたようだ。

このように縮小した画面の比較では、巨大なこの書の迫真力を想像するのは困難だが、解説図に、ふつうのように行間の空白をおいた状態をつくってみた。前述の「ジグソウ・マジック」の仕組みなど、検討の参考になるだろう。

図2s.jpg内村教授のまとめには、「行間の余白も「むだ」と感じ省こうとした」とある。だがそれだけでなく、行間の余白をおく場合の左右、横方向の相互反照と、完全な行間の余白美の形成を目ざしてのリハーサルでもあったのではないか、と私はこのごろ考えている。

「野」字の不思議な書体、5連続の回転運動。はじめの大きな円は画面より手前に跳びだし、右下につづく円は画面の後方にさがっている。微妙な遠近感。ふつうみる「野」とは少々形が変わっているが、それでも「野」に違いない。もう少し進むと字でなくなってしまう、ぎりぎりの形だ。先々週ブログのトップのように、1字だけを取りだすと不安定感をともなうが、一幅の中ではしっかりと安定している。

「風」から「寒」への連綿。仮名ではよくみるようなかたち。「恵」から「然」もその気合いだ。「恵」の終画を右下がりにしたなども仮名では珍しくない手法だ。上や下にくる文字とのかね合いによって、傾いたり曲がったり、縦長や横長になったり、部分的に延びたり縮んだり広がったり、と自然に変身する。そのあたりはわが日本の伝統、連綿仮名のイデアが活かされている。

「僧」のニンベンが越境侵入、事件だ。気合いで乗り込んだのか、想定内の茶目っ気からか。その余波をくらった「機」「余」は身をくねらせる。次の4行目もその流れを受け継いだかたちで、再度のバトンタッチを受けた5行目にもその名残がみえる。コンポジション全体のコントロールは、ニンベンの指先の「視心」に向かう統一性を実現している。

「錬」や「六」の点の位置が、ふつうよりも思い切って離れているなどは驚くに当たらない。全体を通じて、このごろでいう漢字の「デフォルメ」とは少し違った感覚だ。ぴったりくる術語が見あたらないが、「リフォーム」くらいではどうだろう(アレンジでは少し外れた感じだ)。「デフォルメ」される文字の都合からでなく、それを取り巻く他の文字たちとのベクトルのバランス、つまり章法の必要から生起した変化なのだ。

6行書きというのは書きづらいものではないのか(作品をつくらない筆者の気掛かり)。この書は6行目をさらに2行に分かち書きしている。ふつうのように行間をゆったり取って書くなら、それほどのことでもないかもしれないが。

さまざまな方向からこの書を眺めていたら、思わず3週にわたってしまったが、すぐれた書は本当に活きていることを忘れてはいけない。すぐれた書は相手をみて、その相手に合わせて表情をかえる。「人は人さまざまにゲーテを読む」と誰かがいったが、それがゲーテの大きさだ。こういう意味で「真実は一つ」というのは真実ではない。「真実は多様性をもった一つ」というのが真実だ。



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