もう一つの梧竹(篆隷3)-鉄舟居士賛碑陰

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「山岡鉄舟居士賛」碑は東京谷中の全生庵にある。撰文は鵜養徹定、書は勝海舟。






その碑陰を、梧竹が「漢・祀三公山碑」に則った篆書で書いた。刻者は宮亀年。もとは本堂前に建っていたが、現在位置は狭隘で非常に見づらくなっている。碑は米軍の東京空襲で焼夷弾の直撃を被り、クレーター状の無惨な弾痕が残されている(図版は戦前の拓)。

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慶応4年(1868)3月、新政府東征軍が江戸城総攻撃のため静岡まで進んできたとき、山岡鉄舟はただ一人、大本営にのりこんで総参謀の西郷南州に面接、江戸城無血開城の道をひらいた。それをうけた西郷と勝海舟の会談で無血開城が実現し、江戸市民は戦火を免れ、西欧列強の介入を未然に防ぐことができた。西郷は「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、このような人でなければ天下の偉業は成し遂げられぬ」と賞賛した。鉄舟は剣・禅・書の達人として知られ、茨城県参事、伊万里県権令を歴任、明治天皇の教育係をつとめた。全生庵は、鉄舟が幕末維新で国事に殉じた人々の菩提を弔うため、明治16年に建立したもので鉄舟寺ともいわれる。梧竹は鉄舟が伊万里県権令のとき、剣の悟りについて語り合い意気投合したと伝えられるなど、勝海舟、山岡鉄舟と梧竹の内面的な交遊はかなり親密なものがあったと想像される。

「漢・祀三公山碑」は元初4年(117)の建立、河北省元氏県にある。霊験あらたかな雨の神を衡山に請祀した記念碑である。隷書の筆意を兼ねた篆書には、古代人の信仰心につながる敬虔な心情がこめられている。梧竹がこの碑に則って筆をとったことにも、鉄舟への厚い敬意から出たものと感じられる。

梧竹の「鉄舟居士賛碑陰」は全文152字、「漢・祀三公山碑」は全文197字。両碑ともそれほど長文ではない。碑文を比較すると、両碑に共通する文字が19文字ある。例えば「之」字は「鉄舟居士賛碑陰」に6字、「漢・祀三公山碑」に3字みえるという風で、これを「之6-3」のように表記して整理すると次のようである。
之6-3、其3-5、道3-3、者4-1、以3-2、三2-4、年2-2、如2-1、山1-3、西・不1-2、焉・五・工・高・作・称・石・本・ 離・霊 1-1

両碑における共通文字の出現度数をかぞえると、
「鉄舟居士賛碑陰」は全文152字のうち共通文字が38字(出現率24.3%)、
「漢・祀三公山碑」は全文197字のうち共通文字が38字(出現率19.3%)
となっている。「鉄舟居士賛碑陰」の24.3%、およそ4字に1字という高い出現率をみると、梧竹は「漢・祀三公山碑」の書法をとっただけでなく、文章を構成する文字も、できるだけ「漢・祀三公山碑」から求めようとつとめたのではないか。これもまた、梧竹がこの碑にこめた思いを物語るものであろうと感じるのである。 (以下次週に)





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