もう一つの梧竹(篆隷2)−臨書とは?

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孔子は「学んで思わざればすなわち暗し、思いて学ばざればすなわち危うし」と教えた。書にとっても有益なことばだ。書の本質に迫る必須の課題「臨書とは?」を今回は考えてみよう。人生のゆとりある生き方の参考とすることだってできる。


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左は自詠「向島雑詩」の一首。梧竹は60歳代前半ころ、向島の三囲神社近くに「墨水村居」を構えて住んだことがある。近所の名石工宮亀年の工房、言問い団子、桜もちなどとは心安いお付き合いだった。
漁師や坊さんや芸妓の家の北には、茶店や菓子屋や酒屋が連っている。私はこの町で字を書き、それを売って暮らしを立てているが、そうそう誰もが買ってくれはしない。だのに地税は情容赦なくまけてくれることはない。                                 

右は「漢孝堂山郭石室画像題名」の臨書。
山東省肥城県の古墳前の石室に刻した画像10幅の中、第6幅の題字。
平原湿陰のショウ(召+阝)善君、永建4年4月24日を以て此の堂に来たり過り、叩頭して賢明に謝す。

前回・今回のような書体は隷楷とか楷隷とかよばれることがある。隷書から楷書への歴史を感じさせるようでおもしろい。隷書のもう一つ前には篆書があった。梧竹の隷楷は篆の呼吸をしっかりと保っている。そこがポイントだ。7月9日のブログ「桜岡公園」で早くものぞかせた天与のひらめきは豊かな発展を示している。

ところで、「向島雑詩」は自運、「孝堂山郭石室画像題名」は臨書。自運と臨書がどう違うのか、またはどう同じなのか。その問いかけの前に、あたたは「自運と臨書」という問題を意識に上しただろうか。ここには「自運と臨書」という興味深い問題が提起されているのだ。

梧竹の書はいつも余裕の表情をしている。ありったけの思いを全力をふりしぼって‥‥、といった風情は微塵もみせない。今回の書も例外ではない。

一般的に、臨書とはお手本(古典)を習うことだが、梧竹の場合には特別の条件がある。学習者(梧竹)の腕前が、お手本(古典)と同等、または勝っているという逆転関係に立っていることだ。当然のこととして、お手本(古典)が不備のところは修正を加えた臨書となる。

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いま基本設計図として「孝堂山郭石室画像題名」がある。2000年むかしの漢代人が石室の壁に書き残したものだ。それを画仙紙に書くのだから、当然修正が必要となる。原典の素朴な明るさを大切にしながら、洗練さを加えよう。漢代人が描こうとした心の表情、「平」の2つの点の意想外の位置取り、石積みのようなタテ長の「湿」。「原」の左右のハライにも、それに似合った表情をつけよう。連続する文字列の流れには、生れたばかりの赤ちゃんが手足を踏ん張るような動感をもたせてみよう ‥‥‥‥。
自運「向島雑詩」の場合は白紙からのスタートだが、それとは違って基本設計が存在することが余裕となって感じられる。漢代人の基本設計図のうえに諸々の彩りを追加して、梧竹バージョンの「孝堂山郭石室画像題名」臨書が完成する。そんな楽しみが、梧竹の臨書にあったのではないか。 

*梧竹の臨書全般について、となるともっと広汎な考察が必要である。原典の年代や書体、梧竹の年齢などいくつもの条件が複合して、簡単に論ずることができないからだ。今回の2作についてもいえることは、梧竹においては排他的に独立した自運あるいは臨書というようなカテゴリーは存在しない、ということだ。

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