山谷題跋

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壬午は明治15年、渡清5か月前の書。余元眉に識られて4年、いわゆる六朝書法をほとんど自由に駆使している。





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黄庭堅の「山谷題跋」の一節を書いたもの。

周秦の古器の銘は皆な科斗文字なり。其の文章は爾雅にして、朝夕之を玩すれば以て華偽を披剥し、自ずから至情を見る可し。戯弄の翰墨なりと雖も補う無しと為さず。     
周秦時代の古器の銘はみな科斗(オタマジャクシのような)文字だ。その文章は正しく 麗しく、朝晩これをもてあそんでいると、華偽(はなやかさ、いつわり)を剥ぎ去って 至情を見ることができる。戯れに書いたものであっても補うところがないわけでない。

梧竹はこの年代に、黄庭堅「山谷題跋」、王澍「論書ヨウ語」、包世臣「安吾論書」など書論の一節を書いた書作をみることが多い。梧竹が愛読した書論であったと考えることもできるが、その時期からしても、包世臣など当時の新学説がふくまれることからも、余元眉スクールのテキストブックであったと考えてよいかもしれない。

前回のブログで紹介したように、梧竹はこの頃、「楷書古鑑」「鄭道昭集字」など実用的な字書編纂にも精力的な取り組みをみせている。北京留学を前にして、梧竹の学習は六朝北派、碑学派の理論と実技の両面ともに一流のレベルに達していた。

梧竹が渡清前から長崎で書いた六朝書は、この屏風にもみられるように潘存風とでもいうべき書風をみせている。余元眉が潘存の書を携えていて梧竹に示したのか、余元眉が潘存風の書を梧竹に示したのか、梧竹自身が開発したのか、という点が残された問題である。

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