般仲盤銘の臨書

無s2.jpg60歳を過ぎて、梧竹の目は北魏・六朝をテイク・オフ、漢あるいは漢以前へと向かっていく。明治30年、71歳の北京再遊のとき収集した100種の拓本が漢碑ばかりだったことも、それを裏付ける。

 

 

 

般仲盤書幅 200 文字入り.jpg中国風から日本風への回帰が、同時に年々進行していくことにも注目しなければならない。

18 模様s.jpg 技法については、60歳代前半で新たなハイテク、点線の技を獲得した。筆毛はまっすぐに通っていて、描かれた線が点線になる。形状には様々なバリエーションがある。さきにふれた円筆―切り口が円形となる立体線―の書線は、点線の技法の開発駆使によって、一段と生彩を加えることとなった。

 

60歳代の梧竹は、金文の臨書を数多く残している。上述のような梧竹書の展開にとって、これが大きな推進力となっている。とくに点線表現の開発には直接的な要因となっている。

本作は典型的な一例で、周般仲盤銘の臨書。阮元の『積古齋鐘鼎彝器款識』によっている。

このような書式は、すでに市河米庵『略可法』にのっている。刊行された1827年には、いわゆる幕末三筆の菘翁・菱湖や良寛も健在で、梧竹が生まれた年にも当たっている。してみれば、米庵の情報網はかなり高性能であったといえそうだ。
明清の中国人も、明治の心泉、黙鳳、鳴鶴、春洞ら日本の書家たちも、臨書はこのような書式によっている。甲骨文・金石文から気に入った一文字だけ取り出して書くのが最近は流行のようだが、臨書とは範疇を異にするものだろう

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